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ようこそ日本福音ルーテル下関教会のHP兼ブログへお越しくださいました。

日本福音ルーテル下関教会は2015年に宣教100周年を迎えました。

ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの流れをくむ伝統あるプロテスタントのキリスト教会です。

どなたでもお越しください。心より皆様のお越しをお待ちしています。

教会には聖書と讃美歌の準備がございます。どの集会も手ぶらでお気軽にお越しください。

マタイによる福音書11章28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2018年1月26日金曜日

顕現後第3主日説教

「私を見つけるイエス」

主日の祈り
全能の神様。あなたは、ただ恵みによって私たちを召し、あなたの働きに招いてくださいます。聖霊によって私たちを強め、あなたの招きにふさわしいものにください。救い主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課
1日課: ヨナ書315&10 ()1447
3:1主の言葉が再びヨナに臨んだ。2「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」3ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。4ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」5すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。

10神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。

2日課:1コリントの信徒への手紙72931()308
7:29兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、30泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、31世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。

福音書:マルコによる福音書11420()61
1:14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
16イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。17イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。18二人はすぐに網を捨てて従った。19また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、20すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

【説教】

顕現節を送るということは、主イエスがこの世で歩まれていた時にどのような御心を示し、教え、導いてくださっていたかということを覚えるときでもあります。そして、この働きを通して私たちは主の栄光を見る者とされています。そのような時にあって今日の主日のために与えられている福音は、主イエスの伝道の始まりと最初の弟子たちを召し出した出来事から聴いています。この御ことばに示されている神の栄光とは何か共にしばらくの間聴いてまいりましょう。

主イエスが宣言した福音の始めの御ことばは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。ここで示されている「時」という言葉は、原典の言葉は「カイロス」という言葉があてられています。ギリシャ語には二つの「時」を表す言葉があります。もう一つの言葉は「クロノス」という言葉です。クロノスは、いわゆる時間をさします。何時何分、何時間、何分とか量的に表現する場合において用いられます。

では、ここで主イエスが宣言された「カイロス」という時とはどのようなことを表すならば、それはその時には決定的な意味がある「時」がカイロスなのです。この言葉はもともと分断する、遮断するという言葉から派生してできた言葉です。平たくいうならば、妻と、夫と運命の出会いをした「時」、人生の岐路の「時」を示す場合に用いるのが「カイロス」であり、今までの持つ時の意味と決定的な違いをもたらす言葉なのです。ですから、この主イエスの宣言は、その「時」に大切な意味がある。神のみ心がそこに決定的に働いているということを意味しているのです。

では、決定的な時とはヨハネが捕らえられたという事件から始まります。と言うことは、先見者であるヨハネまでと、イエスからでは決定的にその時の意味が変わると言うことです。
何が変わったのか。結論をまず述べるならば、神が約束されたメシアをあなたがたの元に遣わすという御ことばの到来を意味するのです。そして、この時は、私たち自身において決定的な時なのです。

なぜならば、この時をもって、神の救いの御心が神ご自身の口をもって直接に宣べ伝えられ、私たちにその御手をもって救いが与えられていくからです。それまでは、ヨナ書にあるように預言者や祭司といった召しを受けた人々の口を通して御ことばが伝えられていたのが、神ご自身がこの世に現れ御心を示してくださっているのですから、それまでの時の持つ意味とは明らかに違うことは明らかです。

そのような時にあって、主イエスは私たちに「悔い改めて福音を信じなさい」とお命じになられました。それまで自分が信じていたもの、富や名声、家族、教師、知識などこの世の何かではなく、神の方に向き直し、神と顔と顔を合わせて、神から出る言葉を信じなさいと命じられているのです。それは、はっきり言うならば、救いにおいて必要のない事がらであると私たちに言っているのです。ただそれまでの古い自分を捨てて、神の御ことばにのみ信頼して生きなさいという神の命令です。

そのように語りかける神が、私たち一人ひとりに呼び掛けている出来事が、まさに4人の人たちを弟子にする場面に表されています。神の救いが、主イエスの宣言をもって到来していることを示しながら、イエスはその国に人を招いてくださっているのです。しかも、それは私たちが神を選ぶということによってなされているのではありません。聖書にあるようにイエスが弟子たちを召し出しています。

すなわち、私たち一人ひとりがキリスト者としてあるのは、私がイエスという人を神の子として認めて選んだのではないのです。マルコ福音書には、ここでイエスが素晴らしい行いをしたとか、教えを説いたとは書いていません。宣教の始めに示されている御心はただ神に信頼し、今までの古い自分を捨て、神に向き直り、神に委ねていくことでした。それが福音であると本当に単純なことを教えられたのです。

その神が、その神の御ことばに従う者として、召し出したのは漁師でありました。律法に精通した学者や、熱心なファリサイ派、サドカイ派、祭司、レビ人といった人々ではなく、素朴に生業をしている人でした。彼らは無学な普通の者だったと後に使徒言行録(4)で書かれているように、市井に生きる人々でありました。神は人の評価や、評判を心には留めません。もちろん、神の救いには、祭司もレビ人もファリサイ派もすべての人が与っています。

しかし、神の弟子として召し出され、神の救いをお示しになる時にあって、初めに召し出したのはそういう仲間内で評価が高く、評判で、神の救いにあの人は相応しいと思われている人にではなく、毎日を普通に過ごし、誰も目に留めないような市井に生きる人です。顧みてみるならば、私たち一人ひとりもそうであります。普通に市井に生きる一人であります。その私を神は御心に留めてくださり、私たちに呼びかけ、神の救いに与る光栄を与えてくださっているのです。

私たちは、この神に委ねてい生きる幸いを今一度心に留めていきたいと思うのです。そして、神の救いに委ねる幸いを心に留めて、この神こそが、私の希望であり、光であり、力であり、避けどころであるということを刻んでいきたいと思うのです。主イエスの宣言によって、それまでの時の意味が決定的に変えられ、私たちは神の国に置かれ、そこへ招かれていること、福音が鳴り響いていることを覚えていきたいと思うのです。

私たちは、神の救いに与る幸い、恵みを御ことばを通して知らされています。しかしながら、この福音が私たちの世に示されているにもかかわらず、未だにそのことを知ることなく日々の暮らしを送っている方々がたくさんいらっしゃいます。その福音を告げ知らせる弟子として私たちは召されている真実を改めて知らされました。
今年も総会を間もなく迎える時季を過ごしています。どうぞ一人ひとりがこの教会の宣教の業が果たして神の福音を告げ知らせるという働きにおいて十分に成し遂げているかということを顧みていきましょう。

神の救いはもたらされています。既に光はこの世に満ち溢れています。神の呼びかけが一人ひとりにあります。この声に応えていく信仰を与えられるような宣教の業をなしていきましょう。今日の福音を通して私たちの教会の「カイロス」としていきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 

2018年1月11日木曜日

クリスマス・イヴ・キャンドル礼拝説教

本日の聖書日課
ルカによる福音書21節~14節(新)102ページ
1そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。2これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。3人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。4ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。6ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、7初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。8その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」



          「喜びの誕生」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

キリスト教は、イエス様を救い主と信じている宗教です。しかもこの救いは、キリスト教徒もそうでない人も含めてすべての人間にもたらされていると我々は信じています。今日は、そんなイエス様の誕生をご一緒にお祝いする日をできますことはとても嬉しいことです。
現代は、クリスマスも大変一般化されて街では綺麗なイルミネーションが飾られたりします。またクリスマスセールなどもあって、欲しかった物がお得に買えるかもしれないという期待感が膨らむ季節でもあります。

そういう何か浮ついてしまうような気持になりますが、始めのクリスマスの出来事であるこの聖書のみ言葉を読んでみますと、現代のような煌びやかで、賑やかな雰囲気は全くありません。
キリスト教において一番大切な方がお生まれになった記念すべき時を覚えているにもかかわらず、そこに広がる情景には暗い闇ばかりが広がっていたのです。

まず登場するのは、イエスの父ヨセフと母マリアです。聖書に「いいなずけのマリアと一緒に」と書かれているようにイエス様の両親はまだ結婚していませんでした。しかしながら、マリアは妊娠をしていました。今日の聖書の箇所の少し前にマリアが妊娠したのは、神様の御心によるということが書かれています。今では婚前妊娠は当たり前のようになってしまっていますが、当時の社会においては非常に深刻な問題でした。なぜならば彼らが生活していたのは、ユダヤ教を中心とした社会だからです。それはユダヤ教の教えを規範とする社会ということです。

ユダヤ教には律法というものが在ります。律法とは神様から人間に与えられた掟であり、それを守ることによって神様と人間とが義しい関係にあって、その正しさ故に救いや恵み、祝福といった善いものを受け取れるのだと考えられていました。ですから、律法を破るということは、神様との関係が破綻し、神様の怒りを買い、裁かれてしまう。滅ぼされてしまうと考えられていました。

そのような社会の中で婚前妊娠はどのようにとらえられていたかというならば、十戒という最も大切な十個の律法の内の一つである「あなたは姦淫してはならない」という掟を破ったということになるのです。神様の律法が書かれている聖書箇所を読んでみますと『しかし、もしその娘に処女の証拠がなかったという非難が確かであるならば、娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で撃ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。』(申命記222021)とあるように、結婚前に不貞があった場合には「石で撃ち殺されねばならない」と書かれています。

つまり、マリアは神様によってイエス様を身ごもったわけですが、自分自身はこの出来事によって命の危機に置かれたということです。人間的な思いに素直になるならば、とてつもない不安や、怖れを抱かざるを得ないでしょう。その怖れの中でヨセフとマリアは、そういう人間的な思いを突破してくださる神様の御心に自分を委ねました。しかしそれでもやはり恐れはあったに違いありません。

また、もう一つの登場人物である羊飼いたちを見てみましょう。彼らは夜の闇の中で羊が獣に襲われないように番をしていました。彼らはベドウィンと言われていました。現在もそういった方々がイスラエルに行くといらっしゃいます。羊を飼いながら、遊牧民生活をして生活をしているのです。
彼らは定住をしません。長年の中東の歴史の中で国同士の争いに巻き込まれながら不安定な生活をしなければならい人々でした。しかも、彼らは社会の中でも最下層に置かれている人々でした。人々から嘲笑され、無視されていた存在だったのです。

そのような人々に、イエス様の誕生はまず知らされたのです。しかもそこはエルサレムというイスラエルの首都ではなく、片田舎のベツレヘムです。ベツレヘムもイスラエルの中では非常に田舎で、誰も目を止めないような寒村でしかありません。イエス様の誕生という喜ぶべき出来事は、誰からも重要視されない場所で、社会からはじき出され、不安定な生活の中に置かれている人々に、そして、命の危機にあって怖れを抱きながら歩む名も知れない夫婦のもとに起こったのです。

しかしながらこれらの事がらこそが、神様の救いの意味を明らかにしてくださっています。翻って私たち自身を見つめてみましょう。私たちは大なるものが善いと考えます。選挙にしても結局のところ多数決です。多くを獲得したものが勝つ仕組みです。また、財産にしても多くを持っている方が素晴らしい、良いことだと考えます。東京の方が色々な物や人が溢れていて良いなと思います。煌びやかな世界に憧れを抱きます。

しかしながら、神様は救いを示すにあたって、そのような場所や人のもとには来られませんでした。救い主イエス様が来られたのは、先ほども申しましたように、誰も重要だと思わない寂れた町の家畜小屋であり、恐れの中にあるヨセフとマリアのもとに、暗闇の中で生きねばならない羊飼いのもとに光として現れてくださったのです。完全な暗闇の中に神様はイエス様という光で満たしてくださるのだと聖書は私たちに教えてくださっています。怖れの中に、不安の中に、誰も目を止めないところに神様は来られ、そこにある人々の思いを慰め、励まし、癒し、力づけ、善いもので満たしてくださるのです。

皆さんはどうでしょうか。日々の生活に追われて疲れを感じることはありませんか。何か言い表せない虚しさや、寂しさを感じたことはありませんか。一生懸命家族のために働いているのに誰からも感謝されないという思いを感じたことはありませんか。この先、自分たちの生活は、我が子の将来はどうなるのだろうかと恐れを感じたことはありませんか。

きっとここにいらっしゃる皆さんそういう思いに駆られたことがあると思います。その思いに神様は、御子イエス様の誕生を通して、あなたと一緒に居るよ、あなたのその思いを受け止め、あなたの暗い心に光を灯すために来たのだよと語りかけてくださっているのです。なぜそんなことを神様はしてくださるのかと言うならば、神様は、皆さんお一人おひとりに無関心ではいられないからです。神様は、そういう思いに囚われている人、一人ひとりをどうにかして、安心させてあげたい、癒したい、励ましたい、慰めたいと切に願っているのです。

それはつまり、神様は一人ひとりがとても大事なのです。順番はつけられません。すべての人を平等に愛してくださって、私たちのそういう弱さと引き換えに、神様の力や善いものを一人ひとりに惜しみなくいつも与えてくださっているのです。
何か私が素晴らしいことをしたから善いものが与えられたのではなく、神様自らが私たち一人ひとりのために働いてくださって、私たちの弱さや不安、怖れを引き取ってくださって、愛という素晴らしいプレゼントをくださったのです。この神様の愛に照らされているわたしの命であるということを心に留めてください。

そのことを心に留めることによって、神様が私を愛してくださっているのだから、私の家族も友人も、生活の中で視線に入ってくるすべての人にも神様は愛してくださっているのだということに気が付かされます。そうすると、自然と生活にしても、仕事にしても、子育てにしても、誰かのために何かをするということは「しなければいけない」という思いから解放されて、神様に同じように愛されている人たちを私も愛して、その人たちが本当に生きるようになるために働くことこそが喜びだという思いに変えられるのです。

他者のために生きることとは、そういう神様の愛に照らされて本当にできるようになるのです。ぜひ皆さんこのクリスマスの時にあたって、私たち一人ひとりが抱える暗いところに神様が愛をもって来てくださったという喜びを心に留めてください。つまり、喜びの誕生とは、本当の愛の誕生の日であり、その愛によって私たちもまた互いに愛し合い、生かし合うことの喜びに活かす出来事であるということを心に留めるクリスマスのひと時としていきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 

2017年12月17日日曜日

待降節第3主日説教

主なる神様、あなたを仰ぐすべての民の思いを奮い立たせ、預言者の言葉に耳を傾けることができますように。あなたの霊によって油注がれ、あなたの光を証することができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編126
126:1【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
2そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
3主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
4主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
5涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

ルカ1:46b55
「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

本日の聖書日課
1日課:イザヤ書6114&8-11 ()1162
61:1主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
2主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
3シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
4彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

8主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。
9彼らの一族は国々に知られ/子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう/これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
10わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。
11大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる

2日課:1テサロニケの信徒への手紙51624()379
5:16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。19“霊”の火を消してはいけません。20預言を軽んじてはいけません。21すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。22あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。23どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

福音書:ヨハネによる福音書168&1928()163
1:6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

アドヴェントクランツに3つ目の火が灯り、刻一刻と主イエスの誕生、救い主の到来が近づいていることを目に見える形で私たちは知らされています。そのような中で先週に引き続いて、洗礼者ヨハネの出来事から私たちは神のみ心に聴いています。洗礼者ヨハネと祭司やレビ人に遣わされた使者とのやりとりが展開されていますが、このやり取りが何を意味し、どのようなみ心が神から示されているのか共に聴く時としていきましょう。

さて、この時代も、というより祖国を失って以来、ユダヤ人たちはメシアの到来を首を長くして待ち望んでいました。旧約聖書に示されているメシアが神から遣わされ、自分たちを救い出してくれるという約束の実現を非常に長い間待ち望んでいますし、現代にあっても彼らはそのことを待望し続けています。そのような中で洗礼者ヨハネが登場するのです。その行い、言動はあたかもメシアのようでもあり、メシアが到来する前に現れるエリヤや預言者のようでした。

彼らはヨハネに「あなたは、どなたですか」と問いかけます。祭司とレビ人から遣わされたと記してありますから、それはある意味で何の権限でそのようなことをするのかと問うているのです。ヨハネは、悔い改めの洗礼を民衆に呼びかけていました。清めは、祭司やレビ人に与えられた働きでした。ですから、彼がなぜそのようなことをするのか。どのような権威のもとに行っているのか問いただす必要があったのです。

もし、メシアであればそれは正しい、エリヤであればそれもまた正しいことであり、預言者の場合においても然りです。そのようにして彼らはヨハネの権威について調べようとしたのです。しかしながら、ヨハネはそれら全てを否定しました。そして、彼はイザヤ書を引用して「主の道を整える者である」と答えました。その誰でもない、しかしながら、自分は救い主が来られる道を整え、神のみ旨を示す者であると言ったのです。

その方こそが真のメシアであるという証をユダヤ人たちにしたのです。救い主が来られるということを証することによって、人々の視線を神ご自身に向けさせようとしているのです。これこそが大切なことです。「証」とはその人の素晴らしい経験や体験を聞いて感嘆することではありません。「証」とは、その人の口を通して、神ご自身に出会う経験です。

極端なことを言うならばその人自身の背景や、この世的な地位とか、名誉、財産に関係はありません。それら一切無しにしても、証言者を通して、神を見る言葉こそが証なのです。ヨハネ福音書の始めに「言は神であった。」(11)「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(14)と語られています。

証はその人の言葉を通して神の出来事、神ご自身について語られ、その「言」が私たちを照らす光そのものとなるのです。人間の内には誰しも心の暗い部分があります。後ろめたさ、劣等感、不安、恐怖などそれは様々な形で私たちの心を支配しようとして、力を奮ってきます。この力に私たちはしばしば敗北します。そして、その暗闇の最大の力が罪です。罪は神を見えなくしてしまいます。神を見えないようにするのですから、自ずと私たちは神以外のものを神とし、本当の光の輝きを知ることができなくなってしまうのです。

しかし、神はこの闇に打ち勝つ方です。私たちのその暗闇に光をもたらしてくださる方です。それは「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」と語られているように、暗闇から自由にされて安心して光の中を歩むようにするために神は「言」として、またその言は命として私たちのもとに来られるのです。私たちがどうこうしたということではなく、神ご自身が人となられた言であるイエスを遣わすことによってその光は私たちと共に在るものとなられたのです。

エレミヤ書に「陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。」とあるように、私たちは闇によって自分自身を砕かれたならば、本当は自分自身で自分を元の形に戻すことはできません。どんなに上手な修復師が直しても、100%元通りとはいかないように、私たちは闇によって砕かれ、自分自身で直した気になってもそれは歪なのです。それは、律法にある通り、自分の犯した罪の分だけ贖ったと思っても、気づかずに犯した罪は放置され、完全であるように見えて、実はそうではないということと同じです。

祭司、ファリサイ派、レビ人などの当時の特権的な地位を占めていた人々は、まさに自分が完全な者であるかのように振る舞っていました。罪など犯していない、神のみ前に真に義しい存在だと思い込んで、自分が罪人であることなど微塵も考えていませんでした。
しかし、主イエスはこの歪な私たちすべての人間をみ言葉を通して、完全に造り変えてくださったのです。「廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。」と預言の言葉にある通り、私たちを真に救い出し、完全な者として、あらゆる闇や、歪から解放するのは主イエスであるということは、明らかなことなのです。

その確かさの中で、私たちはその主イエスを証するのです。この世のどの権威にもなびくことなく、また時には抗いがたい力に晒されながらも、絶対に人間の後ろめたさ、劣等感、不安、恐怖から、また私たちの歪な命を造り変え救い出す唯一の方は主イエスであると証していくことが、私たち一人ひとりに与えられている働きなのです。

ですから、この主イエスを待ち望む時にあって、洗礼者ヨハネを通して示されていることは、神を証し、全ての人がこの救いに与っているという恵みを私たち自身も告げ知らせることなのです。私たちは主イエスを待ち望む者でありながら、同時に神の救いのみ心を知らされている者でもあります。そうであるならば、今、この世に来ようとしている方がどのような方か宣べ伝えずにいられるでしょうか。

私たちの周りには、私自身を含めて神の救いを切実に望んでいる方々がたくさんいらっしゃいます。今年は、様々な不安が襲った出来事が起こりました。戦争になるのではないかという不安、核の脅威に晒され続けている人々、人の不安や弱さ、脆さに漬け込んで起こった凄惨な殺人事件、私たちの聖地であるエルサレムでも争いの火種が起こってしまいました。本当に世には沢山の闇が存在し、人々を飲み込んでしまっています。

私たちはそこへ遣わされています。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」と語られているみ言葉は、今ここに居る私たち一人ひとりに当てはまります。すべての人が光によって平安を得るようになるためにこの世に命を与えられ、ここに立っているのです。何の後ろ盾もないのでしょうか。いいえ、そうではありません。私の後ろ盾は、あらゆる権威に優る神ご自身なのですから、その神から与えられる光を受け取った者として、闇に光を灯す方があなたのもとに来られるのだという希望を携えてまいりましょう。そして、その光である救い主イエスの証し人として立てられているのだということを心に留めつつ歩む日々とし、言葉と行いを通して豊かさに溢れる光を証していきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように