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ようこそ日本福音ルーテル下関教会のHP兼ブログへお越しくださいました。

日本福音ルーテル下関教会は2015年に宣教100周年を迎えました。

ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの流れをくむ伝統あるプロテスタントのキリスト教会です。

どなたでもお越しください。心より皆様のお越しをお待ちしています。

教会には聖書と讃美歌の準備がございます。どの集会も手ぶらでお気軽にお越しください。

マタイによる福音書11章28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2017年10月25日水曜日

宗教改革500年主日礼拝のお知らせ

 今年の宗教改革主日は、ルターの宗教改革から500年を数える記念の時として覚えられます。
 10月29日(日)に宗教改革を覚える礼拝をご一緒いたします。
 普段はティーンズ礼拝が9時30分から、主日礼拝が10時30分から執り行われていますが、この日はティーンズ礼拝と主日礼拝の合同礼拝として恵みに与ります。
 そのために、礼拝の開始時刻が変更になっています。
 宗教改革500年主日は、午前10時からです。
 お間違えのないようにお気を付け下さい。

 また、午後3時からは宗教改革500年コンサートを開催いたします。
 詳しくは、下記に掲載されているポスターをご覧ください。
 ニューヨークで活躍されたファゴット奏者、近藤聡彦氏、下関フィルハーモニック・ウィンド・オーケストラの面々をゲストに迎えてルターの愛した音楽をもって宗教改革を覚えます。
 入場無料ですからどうぞお気軽にお出かけ下さい。皆さんのお越しを心よりお待ち申し上げております。

2017年10月2日月曜日

聖霊降臨後第17主日説教

「悔い改めて生きる」

主日の祈り
命の与え主・愛の神様、あなたは私たちがいつも過ちを犯す者であることをご存じです。恵みによって私たちを過ちから守り、それを乗り越え、救いの道へと導いてください。み子、主イエス・キリストによって祈りのます。アーメン。

詩編唱 詩編251-9()855
25:1【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
2わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。
3あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
4主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。
5あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

6主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
7わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。
8主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。
9裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。

本日の聖書日課
1日課:エゼキエル書1814節、2532 ()1321
各人の責任
18:1主の言葉がわたしに臨んだ。2「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。/『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。/3わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。4すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。

25それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。26正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。27しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。29それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
30それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。31お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。32わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

2日課:フィリピの信徒への手紙2113()362
キリストを模範とせよ
2:1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
共に喜ぶ
12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

福音書:マタイによる福音書212332()41
権威についての問答
21:23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
「二人の息子」のたとえ
28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

この時、祭司長や民の長老たちは、主イエスに近づき、神殿から商人を追い出したり、病人を癒したりする、また教えている事がらに対して「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」と問いかけます。なぜそのような問いかけをしたのでしょうか。それはイエスが誰のもとから来られたか知らなかったからです。そして、彼らは何よりも自分たちの権威はモーセ以来、神から与えられた者であるという自負があったからです。これを脅かすような存在はあってはならなかったのです。

そのような問いを受けて主イエスは「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と逆に祭司長たちに問いかけます。なぜそのようなことを問うのかというならば、彼らが洗礼を受けていないという事に由来いたします。もし、受けていたのであればそれが天来のものであることであると信じ、従ったということです。しかしながら彼らはおそらくヨハネから洗礼を受けていないでしょう。すなわち、それは神に対する不従順を露にするのです。

なぜならば、ヨハネは「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と宣教していたからです。ヨハネの洗礼とは悔い改めの洗いです。水においてそのしるしとしたのです。そして、そこに来るものとは、天の国を望み、御国に相応しい者となりたい、自分自身の罪について悟り、悔い改めを必要としていたということを表すのですから、自分が正しく御国に相応しい身分であるという祭司長たちがそこに来るはずがないのです。自分はすでにこの権威のゆえに神のみ前に正しいという思い上りが、この問答に見て取れます。自分は善であるという最も愚かな思い上がった人間の姿がそこに映し出されているのです。

そこでイエスは一つの譬えを用いて彼らに語りかけます。二人の息子が登場いたします。ぶどう園へ行って働きなさいという父に対してどのように振る舞ったかということが語られています。兄は嫌ですと言いながら出かけた。弟は模範的に応えながら行かなかった。本当に単純な二人の息子の対比が示されています。そして父親の意思を行ったのは誰であるかということは明白です。最初、拒否していた兄が父の思いを行ったということです。

ここに祭司長たちの天の国における不義が示されるのです。徴税人、娼婦とは、祭司長たちやまたユダヤ教徒の人々にとっては罪人の筆頭のような存在です。それらの人々は、神の救いに与るにふさわしくない人間だと思われていましたし、その人の人となりに関係なく、蔑まされていた人々でありました。しかし、彼らこそ自分が神のみ前において正しくない、神の義さに恐れを抱いていた者でした。この正しさの前に自分は滅びるしかない、死する存在でしかないということに絶望していたのかもしれません。

しかし、そのような時に洗礼者ヨハネが現れました。彼は「悔い改めよ」と叫びます。今日の福音にあるようにそれは「考え直す」ということでしょう。考え直すということは、その対象の物事に向き合っていくということです。その真剣な思いをもって向き合った時に、神という存在を前にして、そこにこそよりどころがある、むしろ、罪深い自分には神のみがより所であるということを悟るのではないでしょうか。

神のみ前において不義であるということを深く自覚するとき、悔い改めるほかないという思いが与えられていくのです。今日の第一日課で「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」と示されているように、神は悔い改める者の悔い改めを赦し、死ぬ者から生きる者、命ある者としてくださると預言を通して教えてくださっています。

すなわち、私たちは自分自身の罪を悔い改めるとき、その罪の重さ、罪の深さ、滅び、死ぬべきものでしかないということを悟る時、真の悔い改めをしようという思いが与えられ、その真の心からの悔い改めを聴いてくださる方が居てくださるということを知らされているのです。
すなわち、悔い改めて生きるということは、たしかに何か暗い自分の部分を見つめるということをしなければなりませんから、苦しいですし、悩みます。けれども、私たちはその悔い改めを聴き、赦し、命を与えてくださる方をみ言葉を通して知らされています。

そうであるならば、悔い改めて生きるということは、命の中に入るということであり、希望をもって生きるという前向きな生き方なのです。二人の兄弟の兄は始め、父の前において父に従いませんでした。まさにそれは神の律法の前において従えない私たち一人ひとりを映し出します。しかし、そこから悔い改めてぶどう園に行ったということは、御国に行ったということです。

悔い改める者は、御国に行くのです。この約束が今日の二人の息子の譬えを通して示されています。私たちは、兄です。従えない者でしかありません。ですから、毎週の礼拝の中で、毎回の祈りの中で自分が神のみ前において足らざる者、欠け多き者、不義生る者であることを覚え、この悔い改めを真に聴いてくださる方へそれを正直に告白していきましょう。

それが「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。」とあるように私たちは罪を告白するごとに、新しい心と新しい霊を造り出し、命へと行くのです。光の方へと歩むのです。重ねて言いますが、悔い改めとは、自分の暗い部分を見つめながら、それを光へと変えてくださる方に信頼していくという前向きな生き方です。悔い改めて生きる恵みを覚えてまいりましょう。命へと歩んでまいりましょう。

2017年6月12日月曜日

三位一体主日説教

「伝える義務」

主日の祈り
全能の創造者、生きておられる神さま、唯一にして三つであるあなたの栄光をあがめ、三つであり唯一のあなたの大いなる御力をたたえます。この信仰に堅く立ち、逆境の中で守り、ついには、御前にあって永遠の喜びと愛のうちに住まわせてください。いまも、そしてとこしえにいます、父、御子、聖霊なる唯一の神に祈ります。アーメン

詩編唱 詩編8編(旧)840
8:1【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
3幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
4あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
6神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
8羊も牛も、野の獣も
9空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
10主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。

本日の聖書日課
1日課:創世記11-24a ()1
1:1初めに、神は天地を創造された。2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。4神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。6神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」7神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。8神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。9神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。10神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。11神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。12地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。13夕べがあり、朝があった。第三の日である。14神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。15天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。16神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。17神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、18昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。19夕べがあり、朝があった。第四の日である。20神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」21神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。22神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」23夕べがあり、朝があった。第五の日である。24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。2:1天地万物は完成された。2第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。3この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。4aこれが天地創造の由来である。

2日課:コリントの信徒への手紙Ⅱ 1311-13()341
13:11終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。12聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。13主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

福音書:マタイによる福音書2816-20()60
28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日与えられているみ言葉は、いわゆるイエスの宣教命令と言われているみ言葉です。そして、今日は三位一体主日という特別に名前の冠された主日を守っています。キリスト教の神は父と子と聖霊の三位一体の神を信じる信仰によって生かされています。この信仰に生かされているということを与えられたみ言葉から味わい、聴いてまいりましょう。

主イエスは、 私たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と私たちに語り掛けます。権能とは、力です。それは、天と地の一切の権能です。では、その天と地の一切の権能はどこにあるのでしょうか。
そしてその権威とは、神から来るものです。今日の第一日課で天地創造の出来事が読まれました。この世のことがらを神が創造した御業です。

すなわち、この権威が神から与えられていることが明らかです。そして、その神の資質についてイエスは「父と子と聖霊の名によって」と語られています。神は父として、子として、聖霊として私たちに働きかけ、すべての人を弟子にしなさいと命じられています。私たちは他でもないこの神を伝える者として立たされているのです。

そして、裏を返せば私たちが今こうして毎週の主日に教会に集い神のみ言葉に触れ、聴いているということは、まさにこの主イエスの宣教命令に忠実に聴いてきた多くの主の弟子たちによって連綿と守られたことによるのです。このご命令がなければ私たちは今日、こうして神のみ言葉に聴くことの恵みに与ることは無かったでしょう。

そのような中で弟子たちが大切に人々に語り伝えたことが、神は父と子と聖霊の神であるということです。父なる神によって私たちの世が創造され、子なる神であるイエスの十字架によって罪からの救い、永遠の命が与えられていることを確信させ、聖霊なる神が先週の使徒言行録の聖霊降臨の記事に「霊が語らせるままに」とあるように神を語らせる力の源となってくださっているのです。

この三者三葉に働いている神は三つであり一人の神として私たちの内で働いてくださっているのです。イエスは、そのような神の働き、姿を証しし、その神が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と語ってくださっているように、終わりの時までいつも共に在るという約束をしてくださっているのです。

ということは、世の始めから神が居まして、世を創造され、また主イエスを救い主として遣わし、聖霊を送ってくださったことを思い起こしながらこのイエスの約束を聴くとき、一つのことが明らかになります。
それは、この三位一体の神が初めから終わりまで人と共に居てくださり、その神の御手のうちに置いてくださっているということです。

神の姿かたちは今生きる私たちは見ることは適いません。しかしながら、信仰によってこの神の支配、神の時の中に置かれていることを信じる時、主イエスのこの約束が真実であるということに気が付かされるのです。その神からくる信仰の確信を全ての人々に神のみ名によって宣べ伝えなさいと私たちはこのみ言葉を聴くごとに、そして礼拝の時、最後に祝福を受け遣わされるごとに味わい知るのです。

私たちは、主のみ前には何も持たざる者でしかありません。もしかしたら語るべきことも分からないような存在です。しかしその主が、いつも共に在ることによって、私たちはその共に居てくださる方から、み言葉を受け、力を受け、主を証しすることの喜びをいただくのです。
何も持たざる者でしかなかった私たちは、神という方を証する大いなる神のみ業に置かれるのですから、それは大変驚くべきことです。

その主は、私たちには見えません。しかしながら、古の詩編作者は主なる神を思い起こしながら「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」とその威光を最大限の賛辞を送っています。翻って自分自身はどうでしょうか。主なる神に生かされ、神から主を証しする力をいただき、日々の営みを守り導いてくださっている主を思いながら、この詩編作者のような信仰に立っているでしょうか。

緩慢に過ごし、主に生かされているという当たり前のようでいて、当たり前でないことを深くとらえているでしょうか。主イエスの弟子たちは、この恵みを深くとらえていたからこそ、大迫害の中にあって命の危機に瀕してなお、主イエスは救い主であると人々に宣べ伝えることができたのではないでしょうか。主イエスの「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というみ言葉、天地創造の御業を信じ、与えられた信仰に刻み、初めから終わりまでいつも共に居てくださっている神が在るという信仰から来る確信に生かされていたに違いありません。

この福音に私たちも生かされています。そうであるならば、私たちもまた覚悟と勇気をもって世に主を証ししていく働きが与えられていると思うのです。なぜならば、私たち一人ひとりがそうであるように、もしくはそうであったように、父なる神のみ言葉と出会い、主イエスの十字架に示されている愛に癒され、励まされ、聖霊によって日々豊かにされていることに生かされている恵みを待ち望んでいる人々が世にはまだまだいらっしゃるからです。

あなたの命の初めから終わりまで神はいつも共に居てくださるのだよというメッセージに生きる力、喜びを与えられる人が居るはずです。世の中ではインターネット、ソーシャルネットワークサービス、携帯電話など、いろいろに便利になり、人との繋がりが容易くできるようになりました。一方でその中で孤立し、孤独を覚え、誰も本当の友が無いと思っている人がたくさんいることを様々なメディアを通して見聞きしています。それだけではありません。震災による孤独死などのニュースもまだまだ流れてきます。世には孤独が溢れているのです。

人との繋がりを生み出す器が、むしろ人を孤独に追いやっている現実があり、人知れず孤独の中で命を落としていく方々が居るのですから、私たちがこうして生かされている約束「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という主イエスのみ言葉が誰かを生かす福音になりえるのです。だからこそ、私たちはこの福音が鎮まることを許してはならないのです。語るのは、聖霊です。神です。そうであるならば、この神に信頼して私たちはいつまでも主を証しする道を歩んでまいりましょう。
今一度、父と子と聖霊の神によって生かされ、語り、「共にいる」という主の約束にあなたもあずかっているのだという福音を共に力の限り世に宣べ伝えてまいりましょう。主の福音にすべての人が生かされる時が必ず与えられると信じて歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。