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ようこそ日本福音ルーテル下関教会のHP兼ブログへお越しくださいました。

日本福音ルーテル下関教会は2015年に宣教100周年を迎えました。

ドイツの宗教改革者マルティン・ルターの流れをくむ伝統あるプロテスタントのキリスト教会です。

どなたでもお越しください。心より皆様のお越しをお待ちしています。

教会には聖書と讃美歌の準備がございます。どの集会も手ぶらでお気軽にお越しください。

マタイによる福音書11章28節
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

2018年4月5日木曜日

第8回東日本大震災チャリティーコンサート

今年も東日本大震災を心にとめる時が与えられます。
震災が発生してすぐの4月から始まったコンサートも今年で8回目を迎えます。
今年も高橋さん(マンドリン)、夏川さん(ピアノ)をお迎えして、素敵な音楽を届けていただきます。
どなたでもお越しください。

入場無料ですが、席上カンパがございます。
カンパは全額、東日本大震災関連の施設、活動のために全額献金をいたします。
沢山の方のお越しを心からお待ちしています。

昨年のコンサートの模様の記事です。  ←■をクリックしてください。

高橋さんHP   ←■をクリックしてください。
夏川さんブログ  ←■をクリックしてください。


主の復活(イースター)主日説教


「あの方は復活なさった」


主日の祈り
憐れみ深い神。主イエスは生きておられます。私たちは もう主イエスを死者の中に捜しません。主は復活し、私たちの命の主となられました。復活の主キリストと共に生きる命を私たちのうちにさらに増し、あなたの民として、永遠の命に与るときまで、共に歩んでください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編118:1-2&14-24
118:1恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。
2イスラエルは言え。慈しみはとこしえに。

14主はわたしの砦、わたしの歌。主はわたしの救いとなってくださった。
15御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。主の右の手は御力を示す。
16主の右の手は高く上がり/主の右の手は御力を示す。

17死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。
18主はわたしを厳しく懲らしめられたが/死に渡すことはなさらなかった。

19正義の城門を開け/わたしは入って主に感謝しよう。
20これは主の城門/主に従う人々はここを入る。
21わたしはあなたに感謝をささげる/あなたは答え、救いを与えてくださった。

22家を建てる者の退けた石が/隅の親石となった。
23これは主の御業/わたしたちの目には驚くべきこと。
24今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。

本日の聖書日課
第1日課:イザヤ書25章6節‐9節 ()1098頁
25:6万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
9その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。

第2日課:使徒言行録10章34節‐43節()233頁
10:34そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

福音書:ヨハネによる福音書20章1節‐18節()209頁
20:1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」3そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。4二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。5身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。6続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。7イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。8それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。9イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。10それから、この弟子たちは家に帰って行った。

11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

イースターおめでとうございます。主の復活をお祝いするこの時をみ言葉と共に与れましたことを神に感謝いたします。この時、ご一緒に与えられたみ言葉を通して主の復活の恵みとは何か神に聴いていきたいと思います。

今日与えられている主日の祈りにおいて、私たちは心を合わせて「主イエスは生きておられます。私たちは もう主イエスを死者の中に捜しません。」とお祈りをいたしました。そうです。イエスは、もはや死の中にいません。それは、マリアが告げているように「墓から取り去られ」たのです。墓は、死者を葬る器として用いられています。たしかに、十字架の死の日、イエスは墓に埋葬されました。イエスは十字架の上で死に、たしかに死の中に置かれたはずです。

しかし、復活の朝、イエスは、死の中に居られないのです。主イエスは死から復活されたから。それは、弟子たちは墓の中に「亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」ことを認めていたわけですが、これはイザヤ書で語られている「主はこの山で/すべての民の顔を包んでいた布と/すべての国を覆っていた布を滅ぼし8死を永久に滅ぼしてくださる。」という預言の実現を思い起こさせます。

つまり、主イエスは、死に勝利され、それを「永久に滅ぼしてくださ」ったのです。しかも超自然的な存在として、霊的な存在として復活することによって、永遠の命の約束をお与えになったのでなく、人間として確かに死に、人間としてたしかに復活することによって、私たちもまた、この神のみ子のみ業によって、同じ恵み、同じ死の力への勝利に与っていることをお示しになられたのです。

しかも、この方は、私たち自身が十字架に架けて殺してしまった方です。何の罪もピラトが見いだせなかったにもかかわらず、私たち自身が「殺せ、殺せ、十字架につけろ」と叫び、鞭打ち、荊の冠を被せ、その衣を裂き、平手で打ち、十字架を負わせた方です。主なる神は、その事実をご存じです。私たち人間が神の愛する御子を殺したということを。しかし、神は、この十字架の死こそが、私たちの救いのためであり、私たちを愛し、赦すためであることをお示しになりました。

そして、罪の贖いの小羊として自らの命を捧げ、赦しを現実としてくださったのです。しかし主の救いの出来事は、十字架の死で終わったのではありませんでした。復活という出来事を含めて、私たちの信仰の恵みが在ります。なぜならば、罪に死んだままであれば、私たちは赦しを得ただけであり、その先の希望については分からないままだからです。

主が復活なさったということは、罪に死んだ私たち自身が、その先に示されている神の希望に生きるかということをもお示しになっているのです。それが、先に申しましたように、墓から取り去れた、死から取り去られたということと繋がっていくのです。すなわち、主イエスが、死から復活の命に生きるお姿を示してくださったことによって、私たちもまた罪に死んだ者の一人であり、復活の命に生きる存在とされているという約束を復活のイエスを通して与えられているのです。

永遠の命に生きるということは、肉体の死がな、不老不死ということではありません。永遠の命に生きるということは、始めから終わりまで世を生きて支配されているのは神なのですから、その神の御手の内に私たちはいつまでも生かされているということです。永遠の命に生きる約束、復活の命に与る恵みとは、この神の御手の内に在る者として祝福されているのだということです。

肉体的には、誰もがいずれ衰え、弱り果て、死を迎えます。肉体は滅びてしまうかもしれません。しかしながら、永遠を生きる主と共に私たちは生きるのです。
つまり私たちに与えられている希望とは、主イエスの復活を通して、私たちもまた罪に死んだが、イエスの贖いの十字架、赦しの十字架を通して罪に死んだ者とされた。しかし、イエスは復活をすることによって、神が罪に勝利される方である方を示し、この方を信じる信仰によって、神の永遠の御手の内に在る希望を与えてくださったのです。

今日与えられている日課において「その救いを祝って喜び躍ろう。」「民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。」「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。」とあるように、私たちはこの復活の恵みを宣べ伝える者、証しする者、喜ぶ者とされています。
世には、悲しみ、苦しみ、破れ、命の渇き、嘆きの中に置かれている方々がたくさんいらっしゃいます。私たちもそうであったように、この福音に生かされていることを待ち望んでいる方が居らっしゃるのですから、私たちは今日、ここから派遣される時、この神から与えられる喜び、愛、赦し、平安を宣べ伝えてまいりましょう。永遠の命の恵みにすべての人が生かされていることを力強く証ししてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように 


2018年3月11日日曜日

四旬節第4主日説教

「信じる者は一人も滅びない」

主日の祈り
平和の神。あなたは永遠の契約の血による大牧者、主イエス・キリストを死より復活させられました。

主に従ってみ旨を行うことができるよう、あなたの永遠の契約の血によって、御目にかなうことを私たちに実現し、善いことすべてを行うことができるようにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課

第1日課:民数記21章4節‐9節 ()249頁

21:4彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、5神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」6主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。7民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。8主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」9モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

第2日課:エフェソの信徒への手紙2章1節‐10節()353頁
2:1さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。7こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

福音書:ヨハネによる福音書3章14節‐21節()167頁
3:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」


【説教】

本日与えられている民数記におけるイスラエルの民を見てみますと私たち人間がいかに信仰において薄弱で、脆いかということが露呈されます。イスラエルの民は、エジプトを出て30年間荒野を彷徨わなければなりませんでした。それは現代の私たちにとっては途方もない旅であり、想像を絶する旅であったことと思います。

しかしながら、時間というものは私たちを時として苦しめます。特に苦しく長い出来事が続いていくと人はどうしてもその状況に対して嘆きを覚えます。聖書は「耐えきれなくなって」と書いていますが、原典から直訳すると「魂が落胆して」です。すなわち、この時、イスラエルの民は心の底から疲れを覚え、心から落ち込んでいるのです。その中で人は、神に対して疑いを持ってしまうのです。何故神は私をこのような状況に追い込むのか、苦しめるのかと神に疑いをもってしまうのです。

魂が落ち込み、力も出ないときにこそ私たちの信仰は試されます。そして、その弱まった魂に悪や、罪の力はいともたやすく私たちに牙をむきます。そして、荒野でそうであったように、私たちはその牙によって死んでしまうのです。すなわち、罪とは私たちを死に追いやる牙であり、特に魂が弱り、落ち込んでいる時にその力は凄まじい脅威となり、それに抗うことができないのです。

さらに人間は、罪という事がらにおいて、自分自身が神に対して犯した罪であるにもかかわらず、それを抗いきれない真実を今日のみ言葉は如実に語っています。自分で犯した罪の結果が死であるにもかかわらず、それを逃れる術を私たち自身は持っていないのです。ですから、私たちは罪の力に対して、裸で腹を空かした猛獣の檻に入れられているようなものでしかありません。そこから逃れる檻の鍵も持ち合わせていないのです。

罪の力に対して私たちに成す術もない姿を見て神はどのような御手を下されたかと言うならば、青銅の蛇を旗竿の先に掲げ、悔い改めてそれを仰ぐ者に命を得させることによって救いの道をお示しになりました。自分自身を死に至らしめた蛇を仰ぐとはどういうことでしょうか。それは、自分が何ゆえに死に至る牙に襲われたかということを思い起こすためではないでしょうか。

私は罪によって死に至る、死の世界に飲み込まれて行ってしまう。そのような中で主に悔い改めていくにあたって、主は己の罪を見つめよと仰っているのです。お前は何ゆえ死の牙にかけられているのか、私のゆえか、それともお前のゆえかということが問われているのです。蛇は誰の悪か、誰の罪かと問いかけているのです。その答えはパウロが「自分の過ちと罪のために死んでいた」と語っているように私の側にあるのです。神のみ前に罪を犯しているのは私自身である。

神を疑い、神を非難し、神を拒んだのは、私です。魂が落胆し、力が出ないときに、神により頼むのではなく、神に対し神を否み、疑うという振る舞いをし、神に対して罪を犯したのは誰でもなくこの私なのです。徹底的にその要因は、私にあるということを深く自覚する、それが青銅の蛇であり、そして、主イエスの十字架なのです。

この掲げられた方は、私が神に対して犯した不義、不信仰、疑い、冒涜ありとあらゆる姿を映し出すのです。そして、同時に十字架には神の愛が顕されています。十字架には神の憐れみ、慈しみ、愛、恵みといった私たちの救いにおいて不可欠の神の賜物があります。苦しみでしかないその主イエスのお姿の中に、神からの善いものが示されているということを今日の福音は告げています。

主イエスの十字架を見上げるごとに、イスラエルの民が蛇を仰ぐごとに、自分の罪を見つめ、悔い改めの機会を与えてくださり、主により頼むことによって与えてくださる恵みをお示しになってくださっているのです。主イエスは、宣教の始めに「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。悔い改めとは、自分自身の罪を神に告白することです。そして、その罪を主に差し出し、ただただ主の赦しに希うほかないという信仰の告白です。

その告白を主は聞き入れてくださいます。自分で自分の罪を贖うことの出来ない罪深い私を神は見つめ、憐れんでくださり、賜物として主イエスの十字架を通して赦しを与えてくださるのです。主イエスの十字架を見つめつつ、その十字架に私の神に犯した罪があることを深く自覚し、悔い改めるとき、神は裁き主として厳しく臨む方ではなく、救い主、愛なる神として私たちに臨んでくださっていることに気が付かされます。

私が負わなければならなかった十字架を、赦される術を持たない私のために、罪に対して弱く、死ぬほかない私のために主イエス自らがそれを担ってくださろうとしているという驚くべき御業を私たちは今日のみ言葉から知らされています。第1ヨハネの手紙に「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」と証されているとおりです。

救いの始めは、主の愛であり、その主の愛を信じ、自らの罪を見つめ、悔い改めていくことです。主の愛によって私たちは赦され、生きる者とされているのです。光の中を歩む者となる道を神はお示しになってくださっているのです。その始めは、罪という闇に身を置くのではなく、主イエスの十字架から注がれる光に自らを晒すことです。自分の罪、悪を明るみにだすことを恐れることはありません。

神は私たちを愛してくださっています。裁くためではなく、愛するために主イエスを遣わしてくださっています。主はわたしの罪を既にご存知です。もし自分に罪が無いと言うならば「それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(第1ヨハネ1:8)。神ご自身を否むことでしかないのです。ですから、私たちは正直に神のみ前に罪や悪を告白し、主イエスの十字架にすべてを委ねていきましょう。十字架にすべてを委ねるということは、神の愛にすべてを委ねることです。

四旬節にあって、改めて主のみ前に罪を告白し、悔い改めていくことの恵みを心に留めていきましょう。裁かれるのではないかという畏れからではなく、神の愛に信頼して、赦しの御業である十字架を仰ぎ見つつ悔い改めの日々といたしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように