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2016年12月4日日曜日

待降節第2主日の礼拝説教

クリスマスの準備

主日の祈り
主なる神様、私たちの心を奮い立たせて、御ひとり子の道を備えさせてください。御子の来臨によって、世界のすべての人々にあなたの救いを知る知識を与えてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編721-718-19
72:1【ソロモンの詩。】神よ、あなたによる裁きを、王に/あなたによる恵みの御業を、王の子に/お授けください。
2王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ/あなたの貧しい人々を裁きますように。
3山々が民に平和をもたらし/丘が恵みをもたらしますように。
4王が民を、この貧しい人々を治め/乏しい人の子らを救い/虐げる者を砕きますように。
5王が太陽と共に永らえ/月のある限り、代々に永らえますように。
6王が牧場に降る雨となり/地を潤す豊かな雨となりますように。
7生涯、神に従う者として栄え/月の失われるときまでも/豊かな平和に恵まれますように。

18主なる神をたたえよ/イスラエルの神/ただひとり驚くべき御業を行う方を。
19栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ/栄光は全地を満たす。アーメン、アーメン。

本日の聖書日課
第一日課:イザヤ書111-10()1078
11:1エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち
2その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。
3彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。
4弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
5正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。
6狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。
7牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。
9わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。
10その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。

第二日課:ローマの信徒への手紙154-13()295
15:4かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。5忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。7だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。8わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、9異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、/あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。10また、/「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、11更に、/「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。12また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、/異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」13希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。

福音書:マタイによる福音書31-12()3
3:1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。


今日は洗礼者ヨハネの記事から待降節における神の恵みについて聴いています。この洗礼者ヨハネの記事も待降節には必ず読まれるみ言葉です。それがどういう意味を見出すかというならば、それはこの出来事が主イエスがこの世に来られた事がらにおいて重要な要素があるからです。洗礼者ヨハネによって示された、神のみ旨が何を意味するのか。このことが待降節にあってなぜ語られているのかご一緒にこのひと時神に聴いてまいりましょう。

さて、先週の説教の中で待降節は、「主が到来」されたということを覚える時として過ごしていくということを申し上げました。つまり、待降節とは、主イエスがこの世にお生まれになることを待つ時というよりも、むしろ、私たち人間のために神が人となり、この世に来てくださった恵み、それ自体を覚える時として過ごすのだということをお伝えしました。
ですから、主イエスが来られたことの意味を神に聴くことが、今日のみ言葉をより一層恵み深い神の御心を知るヒントとなるように思います。そして、そのヒントがすでにこの洗礼者ヨハネの記事に示されています。

それは、6節に「罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」というみ言葉です。結論から申し上げますならば、私たちは主なる神のみ前において罪人であるということです。罪人ということは、どういうことかというならば、神を神とできない不信仰であり、自己中心に陥る意志の弱さであり、他者を借り見ることのできない心です。それは、裁きという形でイスラエル自身も滅ぼされた経験をしましたし、罪人は神の救いに与ることができないということになります。

そして、この罪は律法という具体的に文字で書かれた掟によって示されています。これを違反することで罪人である自分を自覚するのです。しかし、そもそも律法とは罪人を暴くためのものだったのでしょうか。むしろ、それが何かというならば、神と人とが正しい関係にあれるように主なる神が定めてくださった規範です。
そこには、神に対する事がらだけでなく、他者に対する事がら、政治的な事がら、裁判における事がらなどありとあらゆる人間生活にかかわる神のみ旨が示されていました。つまり、私たちの命が神のみ旨に沿って歩んでいけるように、真の平和、真の共同がこの世になるために与えられていたのです。

しかし、それがいつの間にか人の粗を探す道具となり、同時に自分がいかに正しいかと自分自身を誇る道具となってしまったのです。そこにある神のみ旨に思いを向けるのではなく、自分を満足させ、他者を陥れる力となってしまいました。今日のみ言葉に登場する「ファリサイ派やサドカイ派の人々」というのは、律法を守り、派閥を成し、自分たちはユダヤ教の中で正しい存在だということを自負していた連中でした。

そのような人々に対してヨハネは「蝮の子」という辛辣な言葉をもって臨んでいます。この言葉に表されている事がらは、まさに先に律法が人の粗を暴くための道具となり、自分の正しさを誇る道具に過ぎないという事がらに対する批判でもあります。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」という言葉は、まさにそのような自尊心に駆られ、おごり高ぶっている人々の思いを暴き出しているのです。

一読すると、彼らも洗礼を受けに来ているのですから、正しいことをしているかのように映ります。しかし、それは外面であって、その内面は、神への遜り、罪の自覚はなかったのです。このことを神はご存じであり、ヨハネもまた、主イエスの道備えをする者として、人々を導くためにその人間的な思いを告発するのです。
それは、マラキ書31415節に「14あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。15むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え/神を試みても罰を免れているからだ。」とあるように、高慢な思いを抱き歩む者の本心は、すでに預言によって暴かれているからです。

私たちの世にあっても、正直者が馬鹿を見るということわざがあります。しかし、神のみ前においては、ずる賢い者、外面的に取り繕い、正しいと自負する者、内面の思いを隠し他者を欺いている者もその思いは徹底的に暴かれるのです。そして、そのような者は、「殻を消えることのない火で焼き払われる。」とヨハネが語られているように永遠の裁きが下されるのです。
しかし、それは神の本心であるかというならば、そうではありません。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ福音書3:16)と語られているように、すべての人間が主に立ち返り、主を主し、永遠の命を得るように望んでおられるのです。主は誰一人として漏らさず救おうとしてくださっているのです。

そして、この御心を成し遂げるために、主イエスを遣わしてくださったのです。私たちを罪の力から救い出すために、世に来られたのです。もはや私たちは罪の前に屈しています。誰も罪の力に打ち勝つことはできません。しかし、それで諦めて、無気力に生きるのかというとそうではありません。今日のみ言葉に示されているように、罪から贖い出し、救ってくださるために主イエスが来られたのであれば、私たち自身もその御心に対して「罪を告白」することによって、備えていくのです。

「告白」という言葉は、原典から見てみますと、「すべてを外に出す」というニュアンスがあります。そうです。私たちの内に在る隠れた思い、高慢さ、惨めさ、弱さ、乏しさといった隠したくなるようなことを神の御前に正直に告白するのです。私はあなたに対して偽りました。隣人を欺きましたと、自分自身を解放していくのです。
正直者が馬鹿を見るのではありません。そのように正直に神の御前に遜り、罪に悩む者に神は、イエスを遣わし、それらすべてを洗い流し、私たちを清い者としてくださるのです。

私たちは主が来られたことを覚える時、それは私たちの隠れた思いを受け止め、贖い、清めてくださる方が来られたのだということを今日のみ言葉を通して教えてくださっています。クリスマスの備えの時にあって、私たちは自分自身を取り繕い、相応しくあるようにする必要はありません。むしろ、無様で、弱く、乏しいことを正直に神に告白し、神に一心に救いを祈り求めていく時としていきましょう。
隠れた思いをあらわにすることを恐れる必要はありません。お一人おひとりが主の御前にあって、等しく罪人であり、救われるべき、祝福された存在なのです。そのことを顕すために主イエスが来られたのです。罪に囚われている私たちには主の平和が豊かに在ることを覚えて今日から始まる日々を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2016年11月25日金曜日

クリスマス礼拝のご案内

11月27日(日)に迎える待降節からクリスマスに備える季節を全世界の教会が迎えます。
教会には、クリスマスの飾りが飾られています。
下関教会は、外壁にクリスマスツリーを模した電灯や、玄関にはオーナメント(クリスマスの出来事を表す人形)が飾られ、聖壇には、アドヴェントクランツ(クリスマスが近づくごとに一つずつろうそくを灯します)が設置されました。

ルーテル下関教会は、12月24日(土)午後7時からクリスマス燭火礼拝を執り行います。礼拝後には、ルーテル下関教会恒例の軽食をご用意しています。

また、翌日の12月25日(日)10時30分からはクリスマス主日礼拝が執り行われます。

クリスマスの出来事を通して与えられた神様の恵みをご一緒に受け取りましょう。

両礼拝ともどなたでもお越しいただけます。
どうぞお気軽にルーテル下関教会の玄関を開けてお入りください。
皆さんとご一緒に神様の恵みに与れることを牧師、信徒一同お待ちしています。




聖霊降臨後最終主日の説教

一緒に楽園に居る

主日の祈り
まことの命である神さま、あなたはあなたに仕える自由と、尽きぬ喜びを私たちに与えてくださいます。あなたを崇め、たたえ、大いなる栄光に感謝します。たえずいつもわたしたちと共にいて、守り治め、この世を御心にかなう素晴らしい住まいとしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編46
1【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
2神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
3わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも
4海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。〔セラ
5大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。
6神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
7すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。
8万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ
9主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。
10地の果てまで、戦いを断ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
11力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
12万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。〔セラ

本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書231-6()1218
23:1「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。2それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。3このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。4彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。5見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。6彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

第二日課:コロサイの信徒への手紙111-20()368
1:11そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、12光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように。13御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。14わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。15御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。16天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。17御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。18また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。19神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、20その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

福音書:ルカによる福音書2333-43()158
23:33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。34〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。35民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。39十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。42そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日は、教会暦の最後の主日を迎えています。主の降誕を待ち望む時から、クリスマス、レント、イースター、ペンテコステと続き、長い聖霊降臨後の期間を私たちは過ごしてきました。
先週にも申しましたように、この時と言うのは、いわゆる終わりの時という事がらについてみ言葉から聴いているわけですが、私たちが昨年から守っているRCLという新しい聖書日課には、今週の主日に対して最終主日とありますが、さらに「王なるキリスト」もしくは「キリストの支配」という名が冠されています。

つまり、この主日において明確な主題があるのです。それは「王なるキリスト」「キリストの支配」とあるように、主イエスの再臨の時に関するメッセージであり、まさにそれは「神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(ヨハネの黙示録22:5)と記されているように、世の終わりに訪れる、新しいエルサレムの完成の時のことを顕しているのです。
そのような時にあって、与えられているみ言葉は、主イエスが群衆の前で十字架に磔にされ、二人の罪人(ざいにん)と共に在る時のやり取りです。この与えられているみ言葉から、その終わりの時の恵みについてご一緒に暫しの間み言葉に聴いてまいりましょう。

さて、私たちにとっての希望とは何かと単刀直入に申し上げるならば、永遠の命の約束が神と人との間に交わされているということです。では、永遠の命とは何でしょうか。不老不死でしょうか。そうではありません。永遠の命とは、神によって罪人である私が救われているという確信を得ることです。
しかも、この確信は、私によって獲得し、成されたのではなく、主である神ご自身が成し遂げてくださったということです。この神の私たち一人ひとりに対する奉仕が救いをもたらしてくださったのです。

そして、その奉仕のしるしが主イエスの十字架なのです。十字架を通して、私たちの罪が贖われ、神と人との間に和解が成立したのです。ですから、私たちは、主に命を委ねていくのです。それは、自分自身を棚上げにしていくということではありません。自分自身の内にある罪と真正面から向き合わなければなりません。神のみ前において私は何も正しくない存在でしかないという「罪」に対する深い認識です。十字架に磔にされている、一人の罪人と同じように、「我々は、自分のやったことの報いを受け」るべき存在であるという自覚です。この自覚無しに主の贖い、罪の赦しの恵みは、獲得しえないのです。

しかし、そのような私にしも関わらず、主イエスは、「この方は何も悪いことをしていない。」にもかかわらず十字架を背負い、磔にされ、命を投げ打ってくださいました。それは、私たち人間を救うという神の意志であり、そこにあるのは、侮辱され、鞭打たれるという、心身に大きな傷をきたす痛みでありながら、それを乗り越え、打ち破る愛によって成し遂げてくださったのです。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ福音書15:13)と主イエスが語られているように、主は、罪人である私たちの友となり、私たちに対する無償の愛を示してくださっているのです。

罪人である私を主は、友としてくださったということだけでも、大きな救いであるにもかかわらず、そればかりか、ご自身の命を通して、私たちの贖いの生け贄となってくださり、和解を成立してくださったのです。この事実に私たちは委ねるばかりなのです。私たちは、罪人にすぎません。しかも、私たちは罪に囚われている者でしかないのですから、私たちの本質は、罪しか選択できないのです。善を成すことができなくなってしまっているのです。にもかかわらず、神は、この十字架の和解を通して、罪人でありながら、義人としてくださり、主の御救いに与り、世の完成の時に御国に在る者としてくださっているのです。

ですから、この十字架の時「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」という一人の罪人の告白は、私たちの告白なのです。私には何も成すことができない。救いは、罪人の私によっては、もたらすことも、叶えることもできない。そうであるならば、ただ主イエスに、自分自身の命を委ねるしかない、命を委ねるということは、自分の存在を全て主に委ねるということです。
日々の営みの中で物質的にも、精神的にもあらゆる事がらについて、何かを得るにしても、失うにしても、そこに主の御心がある。主の御心が在るということは、私たちは主とのつながりの中で生きているのだから、心を平安にして生きていけばよいと言われているのと同様なのです。

私たちの世を見回してみますと、いかに自立し、一人の人間として成熟していかなければならないかということが問われているように思います。もちろん、それは大切なことです。しかし、それを私が成し得なければならないと考え、そのことに囚われていくと、成し得ないとき、自分自身を許せなくなり、そればかりか、こうなってしまったのは周りが悪いのだと、周囲の人々、環境すら許せなくなってしまいます。

しかし、主によって和解され、救いの確信を与えられていくとき、許しが生じます。自分自身は足らざる者であるけれども、主が満たしてくださっている。あらゆる事がらに欠けがあるかもしれないけれども、主は世を愛してくださっている。委ねるということは、自分が無くなることではありません。むしろ、ますます世にあって、立つ力を与えてくださる源である方を知り、弱くとも強く、みすぼらしくとも、輝き、蔑まれていても、栄誉を受けている者とされるのです。それは、この世的な強さ、光、栄誉ではありません。永遠の御国、主イエスが支配される新しいエルサレムに住まう者とされていることによる喜び、恵みです。

詩編46編に「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(11)というみ言葉があります。私たちは、力を獲得することが正義だというふうに考えます。しかし、古の詩編作者は、神から「力を捨てよ」と命じられ、「知れ/わたしは神」という言葉を聴きました。神を知るということは、神との繋がりの中に生きているということに気づくことです。今日、私たちは、主イエスの十字架の死と復活にすべてを委ねていけばよいことを教えられました。それは、この死と復活によって救い出され、神の愛による繋がりの中に生きていることを知らされたからにほかなりません。

主を知る恵みを与えられています。主と繋がり、永遠の命の約束の中に在る私を見出します。終わりの時に在って、尚、私たちは世で生きていくにあたって、今一度この神と繋がり、神と和解され、永遠の御国に生きる希望をもって歩んでいる喜びを思いながら、今週一週間を過ごし、その希望が到来する時を待ち望む、待降節、新しい一年の始まりに備えてまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2016年8月19日金曜日

日本福音ルーテル下関教会Facebookページのご案内

ルーテル下関教会のFacebookページがあります。
どなたでもご覧いただけます。
どちらかと言いますと、Facebookページの方がアクティブに更新されていますから、最新情報はそちらからご覧いただくと良いかもしれません。

https://www.facebook.com/lutheranshimonoseki/

夏休みの宿題を片付けようの会のご案内

暦の上では秋を迎えていますが、まだまだ残暑厳しい日々が続いています。
皆さんの体調はいかがでしょうか。

さて、下関ルーテル教会では、このたび「夏休みの宿題を片付けようの会」と銘打って、地域の子供たちに向けに夏休みの宿題のお手伝いをさせていただきたいと思います。

期間は、8月22日(月)~24日(水)の10時から17時までです。
お昼や、おやつの準備もあります。お昼を食べる子は、100円いただきます。

どなたでもお越しください。
申し込み不要です。
出入り自由ですので、お気軽にお越しくださいませ。
詳しくは画像のチラシをご覧ください。
チラシには9時30分とありますが、10時からの間違いです。

問い合わせ 
電話:083-222-6980(担当;竹田)
メール:lt.shimonoseki@gmail.com

また、Facebookで「下関ルーテル教会」と検索していただきますと、下関ルーテル教会のページが表示されます。
どうぞ合わせてご覧ください。






聖霊降臨後第13主日の説教

主日の祈り
永遠の裁き主なる神さま、あなたは正義を愛し、抑圧を憎まれます。あなたは真理を熱く願い、それを伝えるためにわたしたちを召し出されます。あなたの僕や預言者たちに倣い、わたしたちの信仰の先駆者であり完成者であるイエス・キリストを見上げつつ、この世の争いと欲の犠牲者たちの側に立つ勇気をお与えください。み子、主イエス・キリストによって祈ります。
アーメン
詩編唱 詩編82
1【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。
2「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
3弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
4弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
5彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
6わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。
7しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
8神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。
本日の聖書日課
第一日課:エレミヤ書232329()1221
23わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。24誰かが隠れ場に身を隠したなら/わたしは彼を見つけられないと言うのかと/主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと/主は言われる。25わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、「わたしは夢を見た、夢を見た」と言うのを聞いた。26いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、27互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえにわたしの名を忘れたように。28夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと/主は言われる。29このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。
第二日課:ヘブライ人への手紙1129122()416
1129信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました。同じように渡ろうとしたエジプト人たちは、おぼれて死にました。30信仰によって、エリコの城壁は、人々が周りを七日間回った後、崩れ落ちました。31信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
121こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
福音書:ルカによる福音書124956()133
1249わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。53父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」54イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。55また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。56偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日示されている福音は、一読しただけではこれが福音なのかと思わされるようなみ言葉が与えられています。聖書には「分裂をもたらす」とありますから、神はそのようなことをなさるのかと思わされるからです。また、そこには家族の対立すら記されていますから、非常にセンセーショナルなみ言葉であるということが言えるかもしれません。しかしながら、ルカはこれが福音であるからこそ記しているのですから、今日与えられたこのみ言葉には、間違いなく神の救いがあるのです。ですから、今日このとき、ご一緒に神の救いがどのように示されているのか、しばしみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。

さて、これが福音であるとは言え、しかしながら、「火を投ずるため」に主イエスが来られたということは、それは戦いを意味していると言えます。それはいわゆる戦争という事柄ではありません。結論から言うならば、あらゆるこの世に現れている破れとの戦いです。
主イエスご自身、この世の破れと戦われた方でありました。ユダヤ社会の中で偏見と、間違った律法の解釈、神のみ言葉が人の思いによって捻じ曲げられている現実、差別など様々な事がらと戦われた様が福音書のそこかしこに記されています。すなわち、この戦いは、実際の戦争とかそういう戦いではなく、神の真の平和と私たちの社会、世界における破れとの戦いであるということです。

この事は、今日与えられている詩編唱がよくそのことを現しています。今日のために与えられている詩編は詩編82編です。その一節にはこのように記されています。

822「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
823弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
824弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」

まさにこの世の不正、この世の破れ、この世に生きる中で本来の姿を壊されている人々に対し、私たちが無頓着で、無関心であるさまが描かれています。今、この世に、自分が置かれている状況の中に、そのような方がいるかどうか、目を向けなさいという神の御声が響いているのです。
イエスは、その公生涯において徹底的にご自身の置かれた状況の中でそのような破れと出会ったとき、世の常識や、世の権威に頼るのではなく、むしろそれこそが神の平和と最もかけ離れた状態であると認識し、戦われたのでした。それは革命を起こそうとか、現行勢力を圧倒しようとか武力による戦いではありませんでした。それは信仰における戦いでした。

神のみ言葉、神のみ旨に真に聴いていくとき、おのずと私たちの生きる世の中における破れに気づかされるのではないでしょうか。そして、同時にその破れの多さに気づかされます。
一概に良い、悪いとは言えることばかりではありません。私たちが生きる日本という社会の中を見渡してみるならば、まことにその破れの多いことと思わされます。一見するならば、私たちの社会は平和であるように思えます。しかしながら、安全保障の問題、経済の問題、家庭の問題、教育の問題など挙げればキリがないほどに平和ではない状態がそこかしこに存在するのです。

先週は、広島、長崎の原爆の日、また今週は終戦の日を迎えます。過去のこの出来事からしても、私たちは、そのことによる破れが今も継続していることを思わされます。昨年の長崎原爆の日に行われた平和祈念式典で被爆者代表として平和宣言をされた谷口稜曄(すみてる)さんの言葉は、まさに被爆者として立たされた自分と社会の中にある破れとの戦いを示しています。その一文を読ませていただきます。
「核兵器は残虐で人道に反する兵器です。廃絶すべきだということが、世界の圧倒的な声になっています。私はこの70年の間に倒れた多くの仲間の遺志を引き継ぎ、戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の一人として、その実相を世界中に語り続けることを、平和を願うすべての皆さんの前で心から誓います。」という平和宣言をされました。

まさに谷口さんは70年以上もの間、ご自身の置かれた立場の中で気づかされた破れと戦い続けているのです。
このようにして、イエスが「わたしが来たのは、地上に火を投ずるため」と言うのは、このような自分の置かれている社会においてそこかしこにある破れとの戦いであると言えます。世の常識に流されて生きていくならば、何も感じずに生きることも可能でしょう。これが当たり前と思っているほうがよっぽど楽です。しかしながら、その常識によって苦しんでいる人がいるのです。悩みの中にある人がたくさんいるのです。

権威という衣を着て、大手をふるって弱者を虐げている人々がいます。ヘイトスピーチや、SNSにおける炎上という事がらもそのようなことの一つと言えるでしょう。私たちの国は一見すると豊かに見えるからなおのこと私たちは、この破れに対して漫然と生きて、見過ごしてはならないのです。
イエスがそうであったように、私たちもまた今、この世の中で、社会で、世界で生きる者として、主が与えたもうた「火」を見つめ、お一人おひとりが与えられた戦いをしなければならないのです。

ルターは、信仰義認という恵みに気づかされました。その中で行為によって救われる、献金の有無によって、贖宥状、いわゆる免罪符を買えば救われるという事がらと戦いました。それは主のみ言葉、み旨に真に聴いていったルターが、与えられた「火」でした。
それはあくまでも「火」なのですから、敵対は生まれることでしょう。それは今日の51節の事がらそのものです。しかし、それは神の真の平和における戦いです。そして、この戦いにイエスは、剣、槍という武器ではなく、十字架というこの世で最も惨めで、弱いと思えるような仕方で平和をもたらしてくださいました。

私たちは、この悲惨さ、弱さの中にある神の栄光、神の救いという武器によってこの世の破れと戦うのです。武器を取るのではなく、信仰をもって戦い抜くのです。それがたとえ世の人々から見るならば、惨めで弱々しくても、綿たちに与えられている十字架がそうであるように、その弱さ、惨めさこそが最も強く、もっとも破れの中にある方々にとっての救いとなるのだということを信じ歩んでまいりましょう。

主が投じられた火は、たくさんこの世にあることに気が付きます。しかし、それを全て負うことは叶いません。しかし、だからといってあきらめるのではなく、お一人おひとりが置かれた場所で、イエスが投じられた火を見つけ、戦っていくこと、しかもそれは神のみ旨に聴く、神のみ言葉に聴く、信仰による戦いであるということを今日示されたのです。お一人おひとりがこの戦いを戦い抜くことができるように、神が共に在って、力づけてくださいますように。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2016年3月22日火曜日

イースター礼拝のご案内

大変ご無沙汰となってしまいました。礼拝のご案内です。

次回の3月27日の礼拝は、イエス様の十字架の死からの復活をお祝いする「イースター」です。
キリスト教の礼拝の中でも最も大切な礼拝です。
だからと言って「そうならば行きにくいな」と思わなくても大丈夫です!
神様の招きは、すべての人に向けられていますから、どなたでもお越しください。
礼拝の後には、お祝いの食事会をいたします。これもどなたでも食べられます。
礼拝の時間は、10時30分からです。
ご一緒に、イエス様の復活の恵みに与かりましょう。


主日の祈り
憐れみの神さま、わたしたちはもはや御子を死人の中に探しません。命の主となって生きておられるからです。キリストと共にある復活の命を思いと心にはぐくみ、あなたの民として永遠の命に至るまで成長させてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

礼拝の聖書日課
第一日課:使徒言行録103443()233
1034そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。35どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。36神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、37あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。38つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。39わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、40神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。41しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。42そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。43また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

第二日課:コリントの信徒への手紙Ⅰ151926()321
1519この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。20しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。23ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、24次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。25キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。26最後の敵として、死が滅ぼされます。

福音書:ルカによる福音書24112()159
241そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。2見ると、石が墓のわきに転がしてあり、3中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。4そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。5婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。6あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。7人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」8そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。9そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。10それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、11使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。12しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。

本日の讃美歌
はじめの歌2番|みことばの歌148番|感謝の歌146
聖餐の歌207(1,3,4)|終わりの歌224


説教題 「復活の朝」 竹田大地牧師

諸集会のご案内
◆毎週日曜日
ティーンズ礼拝(中高生向け礼拝) 9:30~
主日礼拝 10:30~
 ※ティーンズ礼拝・主日礼拝ともに、子どもから大人までどなたでも礼拝に出席いただけます。
 ※聖書・讃美歌は教会にも用意がございます。
 ※ご自分の聖書をお持ちになっていただいても構いません。

◆毎週水曜日(ただし第1水曜日を除く)
聖書を読む会 10:00~11:00
 ※イザヤ書の学びを続けています。

◆毎月第1水曜日
シャローム学びの会 10:00~11:00
 ※女性会の学びの会ですが、どなたでも歓迎です。