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2017年12月17日日曜日

待降節第3主日説教

主なる神様、あなたを仰ぐすべての民の思いを奮い立たせ、預言者の言葉に耳を傾けることができますように。あなたの霊によって油注がれ、あなたの光を証することができますように。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編126
126:1【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。
2そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。
3主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。
4主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。
5涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。
6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。

ルカ1:46b55
「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

本日の聖書日課
1日課:イザヤ書6114&8-11 ()1162
61:1主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
2主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め
3シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫の木と呼ばれる。
4彼らはとこしえの廃虚を建て直し/古い荒廃の跡を興す。廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。

8主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。
9彼らの一族は国々に知られ/子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう/これこそ、主の祝福を受けた一族である、と。
10わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる。
11大地が草の芽を萌えいでさせ/園が蒔かれた種を芽生えさせるように/主なる神はすべての民の前で/恵みと栄誉を芽生えさせてくださる

2日課:1テサロニケの信徒への手紙51624()379
5:16いつも喜んでいなさい。17絶えず祈りなさい。18どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。19“霊”の火を消してはいけません。20預言を軽んじてはいけません。21すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。22あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。23どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。

福音書:ヨハネによる福音書168&1928()163
1:6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。

19さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

アドヴェントクランツに3つ目の火が灯り、刻一刻と主イエスの誕生、救い主の到来が近づいていることを目に見える形で私たちは知らされています。そのような中で先週に引き続いて、洗礼者ヨハネの出来事から私たちは神のみ心に聴いています。洗礼者ヨハネと祭司やレビ人に遣わされた使者とのやりとりが展開されていますが、このやり取りが何を意味し、どのようなみ心が神から示されているのか共に聴く時としていきましょう。

さて、この時代も、というより祖国を失って以来、ユダヤ人たちはメシアの到来を首を長くして待ち望んでいました。旧約聖書に示されているメシアが神から遣わされ、自分たちを救い出してくれるという約束の実現を非常に長い間待ち望んでいますし、現代にあっても彼らはそのことを待望し続けています。そのような中で洗礼者ヨハネが登場するのです。その行い、言動はあたかもメシアのようでもあり、メシアが到来する前に現れるエリヤや預言者のようでした。

彼らはヨハネに「あなたは、どなたですか」と問いかけます。祭司とレビ人から遣わされたと記してありますから、それはある意味で何の権限でそのようなことをするのかと問うているのです。ヨハネは、悔い改めの洗礼を民衆に呼びかけていました。清めは、祭司やレビ人に与えられた働きでした。ですから、彼がなぜそのようなことをするのか。どのような権威のもとに行っているのか問いただす必要があったのです。

もし、メシアであればそれは正しい、エリヤであればそれもまた正しいことであり、預言者の場合においても然りです。そのようにして彼らはヨハネの権威について調べようとしたのです。しかしながら、ヨハネはそれら全てを否定しました。そして、彼はイザヤ書を引用して「主の道を整える者である」と答えました。その誰でもない、しかしながら、自分は救い主が来られる道を整え、神のみ旨を示す者であると言ったのです。

その方こそが真のメシアであるという証をユダヤ人たちにしたのです。救い主が来られるということを証することによって、人々の視線を神ご自身に向けさせようとしているのです。これこそが大切なことです。「証」とはその人の素晴らしい経験や体験を聞いて感嘆することではありません。「証」とは、その人の口を通して、神ご自身に出会う経験です。

極端なことを言うならばその人自身の背景や、この世的な地位とか、名誉、財産に関係はありません。それら一切無しにしても、証言者を通して、神を見る言葉こそが証なのです。ヨハネ福音書の始めに「言は神であった。」(11)「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(14)と語られています。

証はその人の言葉を通して神の出来事、神ご自身について語られ、その「言」が私たちを照らす光そのものとなるのです。人間の内には誰しも心の暗い部分があります。後ろめたさ、劣等感、不安、恐怖などそれは様々な形で私たちの心を支配しようとして、力を奮ってきます。この力に私たちはしばしば敗北します。そして、その暗闇の最大の力が罪です。罪は神を見えなくしてしまいます。神を見えないようにするのですから、自ずと私たちは神以外のものを神とし、本当の光の輝きを知ることができなくなってしまうのです。

しかし、神はこの闇に打ち勝つ方です。私たちのその暗闇に光をもたらしてくださる方です。それは「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。」と語られているように、暗闇から自由にされて安心して光の中を歩むようにするために神は「言」として、またその言は命として私たちのもとに来られるのです。私たちがどうこうしたということではなく、神ご自身が人となられた言であるイエスを遣わすことによってその光は私たちと共に在るものとなられたのです。

エレミヤ書に「陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。」とあるように、私たちは闇によって自分自身を砕かれたならば、本当は自分自身で自分を元の形に戻すことはできません。どんなに上手な修復師が直しても、100%元通りとはいかないように、私たちは闇によって砕かれ、自分自身で直した気になってもそれは歪なのです。それは、律法にある通り、自分の犯した罪の分だけ贖ったと思っても、気づかずに犯した罪は放置され、完全であるように見えて、実はそうではないということと同じです。

祭司、ファリサイ派、レビ人などの当時の特権的な地位を占めていた人々は、まさに自分が完全な者であるかのように振る舞っていました。罪など犯していない、神のみ前に真に義しい存在だと思い込んで、自分が罪人であることなど微塵も考えていませんでした。
しかし、主イエスはこの歪な私たちすべての人間をみ言葉を通して、完全に造り変えてくださったのです。「廃虚の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。」と預言の言葉にある通り、私たちを真に救い出し、完全な者として、あらゆる闇や、歪から解放するのは主イエスであるということは、明らかなことなのです。

その確かさの中で、私たちはその主イエスを証するのです。この世のどの権威にもなびくことなく、また時には抗いがたい力に晒されながらも、絶対に人間の後ろめたさ、劣等感、不安、恐怖から、また私たちの歪な命を造り変え救い出す唯一の方は主イエスであると証していくことが、私たち一人ひとりに与えられている働きなのです。

ですから、この主イエスを待ち望む時にあって、洗礼者ヨハネを通して示されていることは、神を証し、全ての人がこの救いに与っているという恵みを私たち自身も告げ知らせることなのです。私たちは主イエスを待ち望む者でありながら、同時に神の救いのみ心を知らされている者でもあります。そうであるならば、今、この世に来ようとしている方がどのような方か宣べ伝えずにいられるでしょうか。

私たちの周りには、私自身を含めて神の救いを切実に望んでいる方々がたくさんいらっしゃいます。今年は、様々な不安が襲った出来事が起こりました。戦争になるのではないかという不安、核の脅威に晒され続けている人々、人の不安や弱さ、脆さに漬け込んで起こった凄惨な殺人事件、私たちの聖地であるエルサレムでも争いの火種が起こってしまいました。本当に世には沢山の闇が存在し、人々を飲み込んでしまっています。

私たちはそこへ遣わされています。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」と語られているみ言葉は、今ここに居る私たち一人ひとりに当てはまります。すべての人が光によって平安を得るようになるためにこの世に命を与えられ、ここに立っているのです。何の後ろ盾もないのでしょうか。いいえ、そうではありません。私の後ろ盾は、あらゆる権威に優る神ご自身なのですから、その神から与えられる光を受け取った者として、闇に光を灯す方があなたのもとに来られるのだという希望を携えてまいりましょう。そして、その光である救い主イエスの証し人として立てられているのだということを心に留めつつ歩む日々とし、言葉と行いを通して豊かさに溢れる光を証していきましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように  

クリスマス・イヴ・キャンドル礼拝のお知らせ

寒さも厳しい季節となりましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

教会は、待降節(アドヴェント)を迎えています。
そして、いよいよ来週にはクリスマスを迎えます。
今年も24日(日)午後6時からクリスマス・イヴ・キャンドル礼拝を執り行います。

世界で一番メジャーなキリスト教の祝祭日であるクリスマス。
ぜひ今年は教会で過ごしてみませんか?
1時間15分ほどの式となります。
礼拝後には美味しい軽食(カナッペ、ケーキ、お茶など)をご用意しています。

小さなロウソクを見つめながら、神様のみ言葉に耳を傾け、小さな光として来られた御子イエス様の誕生を心に留めながら、大いなる神様の御業の目撃者となりましょう!

当日の主日礼拝は「待降節第4主日」として10時からティーンズとの合同礼拝となります。
礼拝の中で洗礼式が執り行われます。神様に召し出された方の信仰の告白に心を合わせていきましょう。

どなたでも歓迎いたします!
どうぞ教会へ足をお運びください。
神様があなたを待ってます!!!!




2017年10月25日水曜日

宗教改革500年主日礼拝のお知らせ

 今年の宗教改革主日は、ルターの宗教改革から500年を数える記念の時として覚えられます。
 10月29日(日)に宗教改革を覚える礼拝をご一緒いたします。
 普段はティーンズ礼拝が9時30分から、主日礼拝が10時30分から執り行われていますが、この日はティーンズ礼拝と主日礼拝の合同礼拝として恵みに与ります。
 そのために、礼拝の開始時刻が変更になっています。
 宗教改革500年主日は、午前10時からです。
 お間違えのないようにお気を付け下さい。

 また、午後3時からは宗教改革500年コンサートを開催いたします。
 詳しくは、下記に掲載されているポスターをご覧ください。
 ニューヨークで活躍されたファゴット奏者、近藤聡彦氏、下関フィルハーモニック・ウィンド・オーケストラの面々をゲストに迎えてルターの愛した音楽をもって宗教改革を覚えます。
 入場無料ですからどうぞお気軽にお出かけ下さい。皆さんのお越しを心よりお待ち申し上げております。

2017年10月2日月曜日

聖霊降臨後第17主日説教

「悔い改めて生きる」

主日の祈り
命の与え主・愛の神様、あなたは私たちがいつも過ちを犯す者であることをご存じです。恵みによって私たちを過ちから守り、それを乗り越え、救いの道へと導いてください。み子、主イエス・キリストによって祈りのます。アーメン。

詩編唱 詩編251-9()855
25:1【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
2わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。
3あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
4主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。
5あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

6主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
7わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。
8主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。
9裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。

本日の聖書日課
1日課:エゼキエル書1814節、2532 ()1321
各人の責任
18:1主の言葉がわたしに臨んだ。2「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。/『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。/3わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。4すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。

25それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。26正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。27しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。29それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
30それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。31お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。32わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

2日課:フィリピの信徒への手紙2113()362
キリストを模範とせよ
2:1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
共に喜ぶ
12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

福音書:マタイによる福音書212332()41
権威についての問答
21:23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
「二人の息子」のたとえ
28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

この時、祭司長や民の長老たちは、主イエスに近づき、神殿から商人を追い出したり、病人を癒したりする、また教えている事がらに対して「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」と問いかけます。なぜそのような問いかけをしたのでしょうか。それはイエスが誰のもとから来られたか知らなかったからです。そして、彼らは何よりも自分たちの権威はモーセ以来、神から与えられた者であるという自負があったからです。これを脅かすような存在はあってはならなかったのです。

そのような問いを受けて主イエスは「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と逆に祭司長たちに問いかけます。なぜそのようなことを問うのかというならば、彼らが洗礼を受けていないという事に由来いたします。もし、受けていたのであればそれが天来のものであることであると信じ、従ったということです。しかしながら彼らはおそらくヨハネから洗礼を受けていないでしょう。すなわち、それは神に対する不従順を露にするのです。

なぜならば、ヨハネは「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と宣教していたからです。ヨハネの洗礼とは悔い改めの洗いです。水においてそのしるしとしたのです。そして、そこに来るものとは、天の国を望み、御国に相応しい者となりたい、自分自身の罪について悟り、悔い改めを必要としていたということを表すのですから、自分が正しく御国に相応しい身分であるという祭司長たちがそこに来るはずがないのです。自分はすでにこの権威のゆえに神のみ前に正しいという思い上りが、この問答に見て取れます。自分は善であるという最も愚かな思い上がった人間の姿がそこに映し出されているのです。

そこでイエスは一つの譬えを用いて彼らに語りかけます。二人の息子が登場いたします。ぶどう園へ行って働きなさいという父に対してどのように振る舞ったかということが語られています。兄は嫌ですと言いながら出かけた。弟は模範的に応えながら行かなかった。本当に単純な二人の息子の対比が示されています。そして父親の意思を行ったのは誰であるかということは明白です。最初、拒否していた兄が父の思いを行ったということです。

ここに祭司長たちの天の国における不義が示されるのです。徴税人、娼婦とは、祭司長たちやまたユダヤ教徒の人々にとっては罪人の筆頭のような存在です。それらの人々は、神の救いに与るにふさわしくない人間だと思われていましたし、その人の人となりに関係なく、蔑まされていた人々でありました。しかし、彼らこそ自分が神のみ前において正しくない、神の義さに恐れを抱いていた者でした。この正しさの前に自分は滅びるしかない、死する存在でしかないということに絶望していたのかもしれません。

しかし、そのような時に洗礼者ヨハネが現れました。彼は「悔い改めよ」と叫びます。今日の福音にあるようにそれは「考え直す」ということでしょう。考え直すということは、その対象の物事に向き合っていくということです。その真剣な思いをもって向き合った時に、神という存在を前にして、そこにこそよりどころがある、むしろ、罪深い自分には神のみがより所であるということを悟るのではないでしょうか。

神のみ前において不義であるということを深く自覚するとき、悔い改めるほかないという思いが与えられていくのです。今日の第一日課で「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」と示されているように、神は悔い改める者の悔い改めを赦し、死ぬ者から生きる者、命ある者としてくださると預言を通して教えてくださっています。

すなわち、私たちは自分自身の罪を悔い改めるとき、その罪の重さ、罪の深さ、滅び、死ぬべきものでしかないということを悟る時、真の悔い改めをしようという思いが与えられ、その真の心からの悔い改めを聴いてくださる方が居てくださるということを知らされているのです。
すなわち、悔い改めて生きるということは、たしかに何か暗い自分の部分を見つめるということをしなければなりませんから、苦しいですし、悩みます。けれども、私たちはその悔い改めを聴き、赦し、命を与えてくださる方をみ言葉を通して知らされています。

そうであるならば、悔い改めて生きるということは、命の中に入るということであり、希望をもって生きるという前向きな生き方なのです。二人の兄弟の兄は始め、父の前において父に従いませんでした。まさにそれは神の律法の前において従えない私たち一人ひとりを映し出します。しかし、そこから悔い改めてぶどう園に行ったということは、御国に行ったということです。

悔い改める者は、御国に行くのです。この約束が今日の二人の息子の譬えを通して示されています。私たちは、兄です。従えない者でしかありません。ですから、毎週の礼拝の中で、毎回の祈りの中で自分が神のみ前において足らざる者、欠け多き者、不義生る者であることを覚え、この悔い改めを真に聴いてくださる方へそれを正直に告白していきましょう。

それが「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。」とあるように私たちは罪を告白するごとに、新しい心と新しい霊を造り出し、命へと行くのです。光の方へと歩むのです。重ねて言いますが、悔い改めとは、自分の暗い部分を見つめながら、それを光へと変えてくださる方に信頼していくという前向きな生き方です。悔い改めて生きる恵みを覚えてまいりましょう。命へと歩んでまいりましょう。

2017年6月12日月曜日

三位一体主日説教

「伝える義務」

主日の祈り
全能の創造者、生きておられる神さま、唯一にして三つであるあなたの栄光をあがめ、三つであり唯一のあなたの大いなる御力をたたえます。この信仰に堅く立ち、逆境の中で守り、ついには、御前にあって永遠の喜びと愛のうちに住まわせてください。いまも、そしてとこしえにいます、父、御子、聖霊なる唯一の神に祈ります。アーメン

詩編唱 詩編8編(旧)840
8:1【指揮者によって。ギティトに/合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
2主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
3幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
4あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
5そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
6神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
8羊も牛も、野の獣も
9空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
10主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。

本日の聖書日課
1日課:創世記11-24a ()1
1:1初めに、神は天地を創造された。2地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。4神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。6神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」7神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。8神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。9神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。10神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。11神は言われた。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」そのようになった。12地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。13夕べがあり、朝があった。第三の日である。14神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。15天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。16神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。17神はそれらを天の大空に置いて、地を照らさせ、18昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとされた。19夕べがあり、朝があった。第四の日である。20神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」21神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。22神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」23夕べがあり、朝があった。第五の日である。24神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。25神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。26神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」27神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」29神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。2:1天地万物は完成された。2第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。3この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。4aこれが天地創造の由来である。

2日課:コリントの信徒への手紙Ⅱ 1311-13()341
13:11終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。12聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。13主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

福音書:マタイによる福音書2816-20()60
28:16さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日与えられているみ言葉は、いわゆるイエスの宣教命令と言われているみ言葉です。そして、今日は三位一体主日という特別に名前の冠された主日を守っています。キリスト教の神は父と子と聖霊の三位一体の神を信じる信仰によって生かされています。この信仰に生かされているということを与えられたみ言葉から味わい、聴いてまいりましょう。

主イエスは、 私たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」と私たちに語り掛けます。権能とは、力です。それは、天と地の一切の権能です。では、その天と地の一切の権能はどこにあるのでしょうか。
そしてその権威とは、神から来るものです。今日の第一日課で天地創造の出来事が読まれました。この世のことがらを神が創造した御業です。

すなわち、この権威が神から与えられていることが明らかです。そして、その神の資質についてイエスは「父と子と聖霊の名によって」と語られています。神は父として、子として、聖霊として私たちに働きかけ、すべての人を弟子にしなさいと命じられています。私たちは他でもないこの神を伝える者として立たされているのです。

そして、裏を返せば私たちが今こうして毎週の主日に教会に集い神のみ言葉に触れ、聴いているということは、まさにこの主イエスの宣教命令に忠実に聴いてきた多くの主の弟子たちによって連綿と守られたことによるのです。このご命令がなければ私たちは今日、こうして神のみ言葉に聴くことの恵みに与ることは無かったでしょう。

そのような中で弟子たちが大切に人々に語り伝えたことが、神は父と子と聖霊の神であるということです。父なる神によって私たちの世が創造され、子なる神であるイエスの十字架によって罪からの救い、永遠の命が与えられていることを確信させ、聖霊なる神が先週の使徒言行録の聖霊降臨の記事に「霊が語らせるままに」とあるように神を語らせる力の源となってくださっているのです。

この三者三葉に働いている神は三つであり一人の神として私たちの内で働いてくださっているのです。イエスは、そのような神の働き、姿を証しし、その神が「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と語ってくださっているように、終わりの時までいつも共に在るという約束をしてくださっているのです。

ということは、世の始めから神が居まして、世を創造され、また主イエスを救い主として遣わし、聖霊を送ってくださったことを思い起こしながらこのイエスの約束を聴くとき、一つのことが明らかになります。
それは、この三位一体の神が初めから終わりまで人と共に居てくださり、その神の御手のうちに置いてくださっているということです。

神の姿かたちは今生きる私たちは見ることは適いません。しかしながら、信仰によってこの神の支配、神の時の中に置かれていることを信じる時、主イエスのこの約束が真実であるということに気が付かされるのです。その神からくる信仰の確信を全ての人々に神のみ名によって宣べ伝えなさいと私たちはこのみ言葉を聴くごとに、そして礼拝の時、最後に祝福を受け遣わされるごとに味わい知るのです。

私たちは、主のみ前には何も持たざる者でしかありません。もしかしたら語るべきことも分からないような存在です。しかしその主が、いつも共に在ることによって、私たちはその共に居てくださる方から、み言葉を受け、力を受け、主を証しすることの喜びをいただくのです。
何も持たざる者でしかなかった私たちは、神という方を証する大いなる神のみ業に置かれるのですから、それは大変驚くべきことです。

その主は、私たちには見えません。しかしながら、古の詩編作者は主なる神を思い起こしながら「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」とその威光を最大限の賛辞を送っています。翻って自分自身はどうでしょうか。主なる神に生かされ、神から主を証しする力をいただき、日々の営みを守り導いてくださっている主を思いながら、この詩編作者のような信仰に立っているでしょうか。

緩慢に過ごし、主に生かされているという当たり前のようでいて、当たり前でないことを深くとらえているでしょうか。主イエスの弟子たちは、この恵みを深くとらえていたからこそ、大迫害の中にあって命の危機に瀕してなお、主イエスは救い主であると人々に宣べ伝えることができたのではないでしょうか。主イエスの「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というみ言葉、天地創造の御業を信じ、与えられた信仰に刻み、初めから終わりまでいつも共に居てくださっている神が在るという信仰から来る確信に生かされていたに違いありません。

この福音に私たちも生かされています。そうであるならば、私たちもまた覚悟と勇気をもって世に主を証ししていく働きが与えられていると思うのです。なぜならば、私たち一人ひとりがそうであるように、もしくはそうであったように、父なる神のみ言葉と出会い、主イエスの十字架に示されている愛に癒され、励まされ、聖霊によって日々豊かにされていることに生かされている恵みを待ち望んでいる人々が世にはまだまだいらっしゃるからです。

あなたの命の初めから終わりまで神はいつも共に居てくださるのだよというメッセージに生きる力、喜びを与えられる人が居るはずです。世の中ではインターネット、ソーシャルネットワークサービス、携帯電話など、いろいろに便利になり、人との繋がりが容易くできるようになりました。一方でその中で孤立し、孤独を覚え、誰も本当の友が無いと思っている人がたくさんいることを様々なメディアを通して見聞きしています。それだけではありません。震災による孤独死などのニュースもまだまだ流れてきます。世には孤独が溢れているのです。

人との繋がりを生み出す器が、むしろ人を孤独に追いやっている現実があり、人知れず孤独の中で命を落としていく方々が居るのですから、私たちがこうして生かされている約束「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という主イエスのみ言葉が誰かを生かす福音になりえるのです。だからこそ、私たちはこの福音が鎮まることを許してはならないのです。語るのは、聖霊です。神です。そうであるならば、この神に信頼して私たちはいつまでも主を証しする道を歩んでまいりましょう。
今一度、父と子と聖霊の神によって生かされ、語り、「共にいる」という主の約束にあなたもあずかっているのだという福音を共に力の限り世に宣べ伝えてまいりましょう。主の福音にすべての人が生かされる時が必ず与えられると信じて歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

聖霊降臨祭説教

「聖霊を受ける」

主日の祈り
神様、あなたはこの日、あなたを信じる者に聖霊を送って心を開いてくださいます。聖霊の光で導き、私たちが全てにおいて正しく判断し、あなたの平和の内にいつも喜ぶことができるようにしてださい。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編10424-34&35b(旧)942
104:24主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている。
25同じように、海も大きく豊かで/その中を動きまわる大小の生き物は数知れない。
26舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる。
27彼らはすべて、あなたに望みをおき/ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。
28あなたがお与えになるものを彼らは集め/御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。
29御顔を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。
30あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。
31どうか、主の栄光がとこしえに続くように。主が御自分の業を喜び祝われるように。
32主が地を見渡されれば地は震え/山に触れられれば山は煙を上げる。
33命ある限り、わたしは主に向かって歌い/長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう。
34どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。

35bわたしの魂よ、主をたたえよ。ハレルヤ。

本日の聖書日課
1日課:民数記1124-30()232

11:24モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、幕屋の周りに立たせた。25主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言状態になったが、続くことはなかった。26宿営に残っていた人が二人あった。一人はエルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけていなかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。27一人の若者がモーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。28若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。29モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」30モーセはイスラエルの長老と共に宿営に引き揚げた。

2日課:使徒言行録21-21()214
聖霊が降る
2:1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。
ペトロの説教
14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

福音書:ヨハネによる福音書737-39()179
7:39祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日は、キリスト教における三大祝祭である聖霊降臨祭、ペンテコステを覚えています。イエスが約束されていた霊を受け、ペトロをはじめ弟子たちがイエスは主である。すなわち、イエスこそが神が人間に約束されていた救い主であるということを宣教し始めた記念すべき時を覚えているのです。
そのような日にあって、主の霊が注がれ、とどまるということはどのようなみ旨が示されているのかご一緒にみ言葉から聴いていきたいと思います。

聖霊降臨祭は「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあるようにまったく天的な出来事によって弟子たちに齎されたのです。これは真に神の出来事であったと言ってよいでしょう。
そのような出来事を通して、彼らは神のみ言葉を預かる者として語らずにはいられなかったのです。

そして、これはイエスご自身が弟子たちに約束された「わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ16:7)というみ言葉の成就です。このみ言葉の成就は、この始めの聖霊降臨の出来事をもって、永遠に私たちに与えられているみ言葉の恵みです。この恵みが私たちに信仰を確信させ、救い主イエスを証する喜びを与えてくださっているのです。そうでなければ、主イエスのみ言葉は廃れ、2000年以上もの間語り伝えられることは無かったでしょう。

ですから、私たちもまたこの聖霊の付与の恵みに与っています。この聖霊の力によって、私たちの行いや語る言葉は、主を主と信じ、主を顕すのです。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と語られているように、主の聖霊が私たちの内に留まり、命の源泉となり、川となり、神の御業、恵み、喜びといった善いもので溢れさせてくださいます。

神は、罪人の一人である私という存在に、聖霊を注いでくださることによってそのように私たちを造り変えてくださっているのです。「聖」とは、神のみが持っている性質です。私たちは罪人なのですから、決して「聖」ではありません。霊という言葉も「息」とも訳すことができますから、それは初めの人間が創造された時にそうであるように、神から与えられたものだということが分かります。

すなわち、まったく神から与えられている賜物によって私たちは神を信じる信仰が与えられているということです。罪人である私たちの内からは善いものは出ないのです。そして、何よりも最初の人も、この聖霊降臨の出来事に際した弟子たちがそうであるように、この神からの聖霊の付与に依らなければ、主を主として生きることができないのですから、これは神と人とを結ぶ触媒として与えられているということです。

この聖霊が私たちの内に来られ、まさに化学反応して、その物体の性質が変わるように、私たちは聖とされ、神の御業、神のみ旨を顕す器として用いられるのです。聖霊がなければ、私たちの行っている業は人の業にすぎません。人の業であるならば、それには限界がありますし、畏れや、不安、傷つけられると尻すぼみになってしまうことでしょう。しかし、その後のイエスの弟子たちの歩みを見れば分かるように、彼らは自分自身の命も顧みずに宣教の道を歩みました。

その根底には、神の約束が成就されたことによる愛の確信です。弟子たちは、自分たちの師であるイエスを天に送って不安の中に在ったはずです。イエスの仲間だと分かれば捕らえられ、死ぬことは自明の中で、この約束が成就されたことによって、神は私たちを捨て置くのではなく、この霊によって強め、神に対する信仰を与えてくださっている。神との繋がりの中で生かされている温かな愛を知るのです。

神は人を一人にしておくのではなく、この聖霊を送ることによっていつも私たちに呼びかけてくださり、一人でありながら、一人ではないという平安を与えてくださいます。神の守りと導きの内にある喜びを味わわせてくださいます。この神の愛が広がるように働くことの力の源泉となってくださっています。
それが聖霊によって私たち一人ひとりに与えられている力の要素です。私たちは等しく、同じ神からの聖霊によって生かされ、造り変えられ、確信をもって神を宣べ伝える者とされています。

ですから、この出来事によってモーセが「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」という願いが叶えられたのです。特別に預言者として立てられた者だけが、神のみ言葉、み旨を顕すのではなく、今、聖霊によってすべての人が神のみ言葉を伝える預言者とされているのです。人の能力の優劣は関係ありません。ましてや、弟子たちは等しく主イエスから一度離れ、裏切った罪人なのです。そこに清く正しい人は居ませんでした。

しかし、神はその弟子たちに聖霊を与えてくださったのですから、同じ罪人の一人である私たちにも同じように主を宣べ伝える預言者としてくださっているに違いないのです。そして、私が語るのではありません。語るのは、私たちの内に来てくださった聖霊自らが語ってくださいます。
神の息吹が私たち一人ひとりの内から吹き荒れるのです。

詩編作者の一人はこの神からの息、霊について「息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。
30あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面を新たにされる。」(詩編104:29b30)と語っています。この神からの賜物なくして私たちの宣教はあり得ないことを見事に証しています。聖霊が与えられたからこそ、私たちは、私たち自身生かされていること、そして、隣人を生かす者とされ、塵や虚無の中から命溢れる恵みに引き上げられていることを知るのです。

この聖霊がいつも共に在ることを私たちは改めて今日覚えてまいりましょう。私たちの一切を力づけ、希望に溢れさせ、平安に導く弁護者、命の水の源泉が私たちの内に留まり、神の愛の源泉としてくださっています。聖霊によって神と結ばれ、神の愛に溢れさせ、神の愛を宣べ伝える者として立てられている喜びを抱きながら、遣わされる日々を聖霊と共に歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2017年5月31日水曜日

主の昇天主日礼拝説教

今も祝福に生きる

主日の祈り
全能の神様、御子は天に迎えられ、御前で私たちのために執り成してくださっています。全世界のための私たちの祈りを聞き、終わりの時に万物をあなたの栄光へと導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編47編(旧)880
47:1【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】
2すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
3主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王。
4諸国の民を我らに従わせると宣言し/国々を我らの足もとに置かれた。
5我らのために嗣業を選び/愛するヤコブの誇りとされた。〔セラ
6神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。
7歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。
8神は、全地の王/ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。
9神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。
10諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録11-11()213
1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
2日課:エフェソの信徒への手紙115-23()352
1:15こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、16祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。17どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
19また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。20神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、21すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
22神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。23教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
福音書:ルカによる福音書2444-53()161
24:44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日覚える出来事は、主の昇天の出来事です。主イエスが復活され、40日間弟子たちに神の国について証してくださった後に、生きたまま天に上げられた出来事です。この出来事に示されている神のみ旨、福音とは何か共にこの時、聴いてまいりたいと思います。

主イエスは、復活し、天に上られる時、弟子たちの「心の目を開いて」くださいました。この御業に何の意味があるのでしょうか。この開くというみ言葉を直訳すると「すべて開く」ということです。このことから表されることは、私たち人間の心は、本来開いていない、もしくは開いていてもすべてではないということです。
そうであるならば、人間が様々な思いや出来事を心で受け止める存在ですから、それが閉じていて、中途半端に開いているだけならば、そのことの本質をすべて受け止めることができないということです。

そして、イエスがこの時、弟子たちの心を開いたということは、復活の主イエスに出会ってなお、人は心が閉じていて、主のみ旨、み言葉について完全に悟ること、知ることができないという真実を突き付けています。
しかし、主イエスが弟子たち一人ひとりの心を完全に開いてくださることによって、弟子たちは、「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』」ということが成し遂げられるのです。

預言者の一人は「天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。/天が煙ように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。わたしに聞け/正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。」(イザヤ51:6,7)と語ります。
私たちは自分の思いに陥り、過ちを犯します。過ちを犯さない人間は居ません。そうであるならば、まったく聖でいられることができないのですから、神のみ前においては罪が在るということを意味します。

そうであるならば、私たちから出るものが正しくあること、神の御業を成すことは不可能です。では、どうしたら神の御業を成し遂げ、正しくあることができるのでしょうか。それは神の恵みを受け取ること、神の祝福を受け取ること、そして、その基に神から与えられる信仰という出来事があるのです。
しかし、先ほども言いましたように、私たちは罪や、自己の思いに囚われ心を閉じていたり、中途半端に開いていたりしていて、完全に心を開くことができずにいます。それでは神からの信仰を受け取ることが適いませんし、また同時にそれらの思いを完全に取り除くことも適わないのです。

だからこそ、私たちは神の恵みに生きるほかないのです。イエスが弟子たちの心を開き、祝福しながら天に昇られたということは、人間の限界にしか生きれない私たちを解放し、祝福に生き、神のみ旨を宣べ伝える者として変えてくださっているという真実を伝えています。しかもそれは、祝福しながらなのですから、それは今も続いているのです。この言葉の時制は未完了でありますから、この祝福はこの弟子たちに与えられて以来、今も私たちすべての人間に与えられ続けている祝福です。

私たち一人ひとりは、今までも、今も、そしてこれからも主イエスの祝福のうちに生きる者とされています。そして、イエスは、「あなたがたはこれらのことの証人となる。」と語り掛けられているように、主イエスが私たちの罪のために十字架の死によって贖い、罪の奴隷から救い出してくださり、復活によって神の時の中、永遠の命に与っていることを伝える者となると言ってくださっています。

「なる」です。「なるであろう」ではありません。私たちは、この主イエスがこの世で成し遂げられた救いの業を証しする者として確固として下さっているのです。すなわち、一人ひとりの行動が、言葉が、思いが主イエスの救いを顕す器とされているのです。
罪人にすぎなかった私たちです。神を証するのにふさわしくない器が、この昇天の出来事を通して、神の栄光、救い、恵み、信仰といった神から来るすべてを証する器とされているのです。

み言葉を通して私たちが神と結ばれ、神のみ旨を悟る者とされ、神の御業を証する者と変えられている喜び、光栄を受けているのです。主イエスの昇天の出来事に集う弟子たちも十字架の時、逃げ出し、主を裏切った信仰の弱き者でした。しかし、この出来事を機に彼らは「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とあるように、主イエスのみ前に遜り、主を賛美し、証しする者とされました。

弟子たちは、この時代、主イエスを賛美するということは、信じない人々にとっては反逆者イエスを主とするということなのですから大変な危険を伴いました。
しかし、そのような恐れ以上に、神に生かされている喜び、恵みが勝るのです。だからこそ、弟子たちは宣教者として神のみ言葉を世界中に宣べ伝えていったのです。彼らが素晴らしかったのではありません。主イエスの祝福、神の恵みがこの世の何にも勝り、将来神の時が訪れれば神の栄光の内にあるという確信があるからです。

同じ喜び、同じ力に与っていることを覚えてまいりましょう。神から来るすべてに勝るものに満たされています。私たちもまた、主イエスに生かされ、救いの喜び、主イエスの祝福の内に生かされている喜びを、神を賛美しつつ、世に響かせ、世界中の人々に神の恵み、救いを宣べ伝えてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2017年5月21日日曜日

復活節第6主日礼拝説教

「約束の聖霊」

主日の祈り
永遠に生きておられる全能の神様。あなたは天と地のすべてを一つに結び付けてくださいます。豊かな憐れみによって、あなたのすべての子どもたちの祈りを聞き入れ、全世界に真理と平和の聖霊を授けてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編668-20節(旧)898
66:8諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。
9神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。

10神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。
11あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ
12人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた。

13わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。
14わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように
15肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。〔セラ
16神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。
17神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。
18わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。
19しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。
20神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録1722-31()248
17:22パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。23道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。24世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。26神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。27これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。28皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。29わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。30さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。31それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

そのことの確証→悔い改めることの意味

2日課:ペトロの手紙Ⅰ 313-22()432
3:13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。14しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

福音書:ヨハネによる福音書1415-21()197
14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

【説教】

復活節は、主イエスの復活を覚え、神から与えられる永遠の命に生かされていることを心に留める時です。しかし、今日のみ言葉にあるように、主イエスは間もなく天に帰られることを私たちに示唆しています。そのような中で主イエスはただ私たちの目の前からいなくなるのではなく、「別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」という約束を与えてくださっています。
私たちはまさにこの約束の弁護者が遣わされているがゆえに、神の真理を知り、主イエスの救いの御業を信じる信仰が与えられているのです。そして、この約束は、使徒たち以来、連綿とすべての人間に遣わされている真理の霊なのです。ですから、この真理の霊は、今も私たちの内に働き続けてくださっています。
この真理の霊が働いてくださっているという神の出来事の中にある恵みを覚えながら、この真理の霊が示す事がらは何か共に聴いてまいりましょう。

私たちは、主イエスに実際にお会いしたことはありません。しかしながら、不思議なことにキリスト者といわれている人々は、主イエスの存在をとても近しい存在として感じ、そして、会ったことも、見たこともない人を信じ、その方によって教えられ、戒められ、心に平安を与えられています。私個人としても実際に触れあったことのある使徒たちや、回心の時に主イエスと出会ったパウロが羨ましくもあります。
実際にお会いし、その顔を仰ぎ、声を聴くことができたらと誰しもが思うことです。

では、キリスト者であるということは、そういうあやふやで、曖昧で、幻のような存在を信じているのかと思わされます。実際に見たことも、聞いたこともない方を信じているのですから、そのように思われても仕方がないことのように思います。しかし、そういう私たちの疑いや不安に対してハッキリと応えてくださるのも神であり、まさに今日与えられているみ言葉を通して、その事がらについて語り、約束してくださっているのです。

というのは、まず弁護者という言葉にそのことが示されています。ギリシャ語ではパラクレートスといいます。これはパラとカレオーという言葉が合わさってできた言葉です。直訳するならばさ「そばから(パラ)呼ぶ(カレオー)」となります。すなわち、たとえ主イエスが見え無くなろうとも、この弁護者が私たちのそばで呼び出してくださり、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」という約束を確信に至らしてくださるのです。
キリスト教における召しとは、英語でcallingと表されます。このことからも示されているように、キリスト者として召され、神のみ言葉を聴く者とされていくということは、私たちが聴く耳を持ったからではないのです。

この真理の霊が、たとえその姿を見ることが適わなくとも、私たち一人ひとりを呼び出し、主の御許へと招いてくださったからに他ありません。どうしようかと途方に暮れている時に、悲しみの淵にある時に、孤独を抱え寂しさを覚えている時に、どんな時にも、この真理の霊が私たちを呼び求め、時に人を通して、時に教育を通して、時に出来事を通して顕れてくださり、お一人おひとりを神の御許に導いてくださったのです。

そして、この導きによってここに集う全員が今まさに同じ主の御声を聴くときが与えられ、主イエスの働きを五感で感じ取り、ここに生かされているのです。たとえ見えなくともたしかに主イエスが約束して下さった真理の霊によって私たちは今あるという確かさの中に置かれていることをこの礼拝を通して私たちは確信する時を与えられているのです。

もし、自分の思いで行きたいから行く、行きたくないから行かない、奉仕したいからする、しないであるならば、教会は教会として一致して宣教に励むことができるでしょうか。そうではないはずです。ですから、私たちがこうしてここに集い、日々を生かされているのは同じ霊によって、私たちのすべてが満たされ散るからに他ありません。同じ霊が働き、同じ神を知るようにしてくださり、十字架から等しく愛と赦しとを賜っているから私たちは一致して宣教に励むことができるのです。

私たちは確かに目で見て、耳で聞くことは適わないかもしれません。しかしながら、この主イエスが約束された真理の霊によって「あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」というみ言葉を悟らせ、主イエスが今も共に居て、私たち一人ひとりを霊を通してそばにいて読んでくださり、見えなくとも見る者とされ、聞こえなくとも、聞こえる者とし、触れることができなくとも、触れる者としてくださっているのです。

この神の御業の中に私たちは信仰によって味わい知る祝福と恵みをいただいています。孤独のうちに主イエスを見出し、悲しみの内に主イエスを見出し、喜びの内に主イエスを見出し、人生の歩みのあらゆる場面に主イエスが共に居てくださっているという確信を得ています。だから平安なのです。すでに罪に死に、主イエスの復活の命によって救われているという確信を与えられているのです。

ですから、私たちはもはや自分の平安のためにあくせくする必要がありません。自分の悲しみを癒すために何かを探し求める必要はありません。自分の孤独を埋めるためにほかの何かで埋め合わせる必要はありません。しかし、世にはこの恵みがすべての人に与えられているにもかかわらず気づかずに、それらの思いに囚われ、不自由にしている人々を多く見出します。

ペテロがアテネの人々に「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」と証したように、私たちはまだ主イエスを知らない人々に、真理の霊によってあなたはいつも神と共に生き、生かされているのだということを証していきましょう。そして、世の人々の内に真の平安が沁み渡っていくように働いてきましょう。「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と主イエスが語られているように、主に愛され、主を愛している私たちなのですから、私たち一人ひとりを通して働かれる主に信頼して宣教の業に励んでまいりましょう

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。