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2017年5月31日水曜日

主の昇天主日礼拝説教

今も祝福に生きる

主日の祈り
全能の神様、御子は天に迎えられ、御前で私たちのために執り成してくださっています。全世界のための私たちの祈りを聞き、終わりの時に万物をあなたの栄光へと導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編47編(旧)880
47:1【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】
2すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
3主はいと高き神、畏るべき方/全地に君臨される偉大な王。
4諸国の民を我らに従わせると宣言し/国々を我らの足もとに置かれた。
5我らのために嗣業を選び/愛するヤコブの誇りとされた。〔セラ
6神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。
7歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。
8神は、全地の王/ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。
9神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。
10諸国の民から自由な人々が集められ/アブラハムの神の民となる。地の盾となる人々は神のもの。神は大いにあがめられる。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録11-11()213
1:1-2テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

3イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

6さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。7イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。8あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」9こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。10イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、11言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
2日課:エフェソの信徒への手紙115-23()352
1:15こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、16祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。17どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、18心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
19また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。20神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、21すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。
22神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。23教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
福音書:ルカによる福音書2444-53()161
24:44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48あなたがたはこれらのことの証人となる。49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日覚える出来事は、主の昇天の出来事です。主イエスが復活され、40日間弟子たちに神の国について証してくださった後に、生きたまま天に上げられた出来事です。この出来事に示されている神のみ旨、福音とは何か共にこの時、聴いてまいりたいと思います。

主イエスは、復活し、天に上られる時、弟子たちの「心の目を開いて」くださいました。この御業に何の意味があるのでしょうか。この開くというみ言葉を直訳すると「すべて開く」ということです。このことから表されることは、私たち人間の心は、本来開いていない、もしくは開いていてもすべてではないということです。
そうであるならば、人間が様々な思いや出来事を心で受け止める存在ですから、それが閉じていて、中途半端に開いているだけならば、そのことの本質をすべて受け止めることができないということです。

そして、イエスがこの時、弟子たちの心を開いたということは、復活の主イエスに出会ってなお、人は心が閉じていて、主のみ旨、み言葉について完全に悟ること、知ることができないという真実を突き付けています。
しかし、主イエスが弟子たち一人ひとりの心を完全に開いてくださることによって、弟子たちは、「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』」ということが成し遂げられるのです。

預言者の一人は「天に向かって目を上げ/下に広がる地を見渡せ。/天が煙ように消え、地が衣のように朽ち/地に住む者もまた、ぶよのように死に果てても/わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない。わたしに聞け/正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。」(イザヤ51:6,7)と語ります。
私たちは自分の思いに陥り、過ちを犯します。過ちを犯さない人間は居ません。そうであるならば、まったく聖でいられることができないのですから、神のみ前においては罪が在るということを意味します。

そうであるならば、私たちから出るものが正しくあること、神の御業を成すことは不可能です。では、どうしたら神の御業を成し遂げ、正しくあることができるのでしょうか。それは神の恵みを受け取ること、神の祝福を受け取ること、そして、その基に神から与えられる信仰という出来事があるのです。
しかし、先ほども言いましたように、私たちは罪や、自己の思いに囚われ心を閉じていたり、中途半端に開いていたりしていて、完全に心を開くことができずにいます。それでは神からの信仰を受け取ることが適いませんし、また同時にそれらの思いを完全に取り除くことも適わないのです。

だからこそ、私たちは神の恵みに生きるほかないのです。イエスが弟子たちの心を開き、祝福しながら天に昇られたということは、人間の限界にしか生きれない私たちを解放し、祝福に生き、神のみ旨を宣べ伝える者として変えてくださっているという真実を伝えています。しかもそれは、祝福しながらなのですから、それは今も続いているのです。この言葉の時制は未完了でありますから、この祝福はこの弟子たちに与えられて以来、今も私たちすべての人間に与えられ続けている祝福です。

私たち一人ひとりは、今までも、今も、そしてこれからも主イエスの祝福のうちに生きる者とされています。そして、イエスは、「あなたがたはこれらのことの証人となる。」と語り掛けられているように、主イエスが私たちの罪のために十字架の死によって贖い、罪の奴隷から救い出してくださり、復活によって神の時の中、永遠の命に与っていることを伝える者となると言ってくださっています。

「なる」です。「なるであろう」ではありません。私たちは、この主イエスがこの世で成し遂げられた救いの業を証しする者として確固として下さっているのです。すなわち、一人ひとりの行動が、言葉が、思いが主イエスの救いを顕す器とされているのです。
罪人にすぎなかった私たちです。神を証するのにふさわしくない器が、この昇天の出来事を通して、神の栄光、救い、恵み、信仰といった神から来るすべてを証する器とされているのです。

み言葉を通して私たちが神と結ばれ、神のみ旨を悟る者とされ、神の御業を証する者と変えられている喜び、光栄を受けているのです。主イエスの昇天の出来事に集う弟子たちも十字架の時、逃げ出し、主を裏切った信仰の弱き者でした。しかし、この出来事を機に彼らは「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」とあるように、主イエスのみ前に遜り、主を賛美し、証しする者とされました。

弟子たちは、この時代、主イエスを賛美するということは、信じない人々にとっては反逆者イエスを主とするということなのですから大変な危険を伴いました。
しかし、そのような恐れ以上に、神に生かされている喜び、恵みが勝るのです。だからこそ、弟子たちは宣教者として神のみ言葉を世界中に宣べ伝えていったのです。彼らが素晴らしかったのではありません。主イエスの祝福、神の恵みがこの世の何にも勝り、将来神の時が訪れれば神の栄光の内にあるという確信があるからです。

同じ喜び、同じ力に与っていることを覚えてまいりましょう。神から来るすべてに勝るものに満たされています。私たちもまた、主イエスに生かされ、救いの喜び、主イエスの祝福の内に生かされている喜びを、神を賛美しつつ、世に響かせ、世界中の人々に神の恵み、救いを宣べ伝えてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2017年5月21日日曜日

復活節第6主日礼拝説教

「約束の聖霊」

主日の祈り
永遠に生きておられる全能の神様。あなたは天と地のすべてを一つに結び付けてくださいます。豊かな憐れみによって、あなたのすべての子どもたちの祈りを聞き入れ、全世界に真理と平和の聖霊を授けてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編668-20節(旧)898
66:8諸国の民よ、我らの神を祝し/賛美の歌声を響かせよ。
9神は我らの魂に命を得させてくださる。我らの足がよろめくのを許されない。

10神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。
11あなたは我らを網に追い込み/我らの腰に枷をはめ
12人が我らを駆り立てることを許された。我らは火の中、水の中を通ったが/あなたは我らを導き出して/豊かな所に置かれた。

13わたしは献げ物を携えて神殿に入り/満願の献げ物をささげます。
14わたしが苦難の中で唇を開き/この口をもって誓ったように
15肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を/雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。〔セラ
16神を畏れる人は皆、聞くがよい/わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。
17神に向かってわたしの口は声をあげ/わたしは舌をもってあがめます。
18わたしが心に悪事を見ているなら/主は聞いてくださらないでしょう。
19しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け/聞き入れてくださいました。
20神をたたえよ。神はわたしの祈りを退けることなく/慈しみを拒まれませんでした。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録1722-31()248
17:22パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。23道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。24世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。26神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。27これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。28皆さんのうちのある詩人たちも、/『我らは神の中に生き、動き、存在する』/『我らもその子孫である』と、/言っているとおりです。29わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。30さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。31それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

そのことの確証→悔い改めることの意味

2日課:ペトロの手紙Ⅰ 313-22()432
3:13もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。14しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。16それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。17神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。18キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。19そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。20この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。21この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。22キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

福音書:ヨハネによる福音書1415-21()197
14:15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

【説教】

復活節は、主イエスの復活を覚え、神から与えられる永遠の命に生かされていることを心に留める時です。しかし、今日のみ言葉にあるように、主イエスは間もなく天に帰られることを私たちに示唆しています。そのような中で主イエスはただ私たちの目の前からいなくなるのではなく、「別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」という約束を与えてくださっています。
私たちはまさにこの約束の弁護者が遣わされているがゆえに、神の真理を知り、主イエスの救いの御業を信じる信仰が与えられているのです。そして、この約束は、使徒たち以来、連綿とすべての人間に遣わされている真理の霊なのです。ですから、この真理の霊は、今も私たちの内に働き続けてくださっています。
この真理の霊が働いてくださっているという神の出来事の中にある恵みを覚えながら、この真理の霊が示す事がらは何か共に聴いてまいりましょう。

私たちは、主イエスに実際にお会いしたことはありません。しかしながら、不思議なことにキリスト者といわれている人々は、主イエスの存在をとても近しい存在として感じ、そして、会ったことも、見たこともない人を信じ、その方によって教えられ、戒められ、心に平安を与えられています。私個人としても実際に触れあったことのある使徒たちや、回心の時に主イエスと出会ったパウロが羨ましくもあります。
実際にお会いし、その顔を仰ぎ、声を聴くことができたらと誰しもが思うことです。

では、キリスト者であるということは、そういうあやふやで、曖昧で、幻のような存在を信じているのかと思わされます。実際に見たことも、聞いたこともない方を信じているのですから、そのように思われても仕方がないことのように思います。しかし、そういう私たちの疑いや不安に対してハッキリと応えてくださるのも神であり、まさに今日与えられているみ言葉を通して、その事がらについて語り、約束してくださっているのです。

というのは、まず弁護者という言葉にそのことが示されています。ギリシャ語ではパラクレートスといいます。これはパラとカレオーという言葉が合わさってできた言葉です。直訳するならばさ「そばから(パラ)呼ぶ(カレオー)」となります。すなわち、たとえ主イエスが見え無くなろうとも、この弁護者が私たちのそばで呼び出してくださり、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」という約束を確信に至らしてくださるのです。
キリスト教における召しとは、英語でcallingと表されます。このことからも示されているように、キリスト者として召され、神のみ言葉を聴く者とされていくということは、私たちが聴く耳を持ったからではないのです。

この真理の霊が、たとえその姿を見ることが適わなくとも、私たち一人ひとりを呼び出し、主の御許へと招いてくださったからに他ありません。どうしようかと途方に暮れている時に、悲しみの淵にある時に、孤独を抱え寂しさを覚えている時に、どんな時にも、この真理の霊が私たちを呼び求め、時に人を通して、時に教育を通して、時に出来事を通して顕れてくださり、お一人おひとりを神の御許に導いてくださったのです。

そして、この導きによってここに集う全員が今まさに同じ主の御声を聴くときが与えられ、主イエスの働きを五感で感じ取り、ここに生かされているのです。たとえ見えなくともたしかに主イエスが約束して下さった真理の霊によって私たちは今あるという確かさの中に置かれていることをこの礼拝を通して私たちは確信する時を与えられているのです。

もし、自分の思いで行きたいから行く、行きたくないから行かない、奉仕したいからする、しないであるならば、教会は教会として一致して宣教に励むことができるでしょうか。そうではないはずです。ですから、私たちがこうしてここに集い、日々を生かされているのは同じ霊によって、私たちのすべてが満たされ散るからに他ありません。同じ霊が働き、同じ神を知るようにしてくださり、十字架から等しく愛と赦しとを賜っているから私たちは一致して宣教に励むことができるのです。

私たちは確かに目で見て、耳で聞くことは適わないかもしれません。しかしながら、この主イエスが約束された真理の霊によって「あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」というみ言葉を悟らせ、主イエスが今も共に居て、私たち一人ひとりを霊を通してそばにいて読んでくださり、見えなくとも見る者とされ、聞こえなくとも、聞こえる者とし、触れることができなくとも、触れる者としてくださっているのです。

この神の御業の中に私たちは信仰によって味わい知る祝福と恵みをいただいています。孤独のうちに主イエスを見出し、悲しみの内に主イエスを見出し、喜びの内に主イエスを見出し、人生の歩みのあらゆる場面に主イエスが共に居てくださっているという確信を得ています。だから平安なのです。すでに罪に死に、主イエスの復活の命によって救われているという確信を与えられているのです。

ですから、私たちはもはや自分の平安のためにあくせくする必要がありません。自分の悲しみを癒すために何かを探し求める必要はありません。自分の孤独を埋めるためにほかの何かで埋め合わせる必要はありません。しかし、世にはこの恵みがすべての人に与えられているにもかかわらず気づかずに、それらの思いに囚われ、不自由にしている人々を多く見出します。

ペテロがアテネの人々に「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」と証したように、私たちはまだ主イエスを知らない人々に、真理の霊によってあなたはいつも神と共に生き、生かされているのだということを証していきましょう。そして、世の人々の内に真の平安が沁み渡っていくように働いてきましょう。「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と主イエスが語られているように、主に愛され、主を愛している私たちなのですから、私たち一人ひとりを通して働かれる主に信頼して宣教の業に励んでまいりましょう

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2017年5月19日金曜日

復活節第5主日礼拝説教

「主の名によって」

主日の祈り
全能の神様、み子イエス・キリストは道であり、真理であり、いのちです。私たちが互いに愛し合い、主の戒めの道を歩んで、御子の復活の命を世界中の人々と分かち合ことができるように恵みを与えてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編312-616-17節(旧)861
31:2主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく/恵みの御業によってわたしを助けてください。
3あなたの耳をわたしに傾け/急いでわたしを救い出してください。砦の岩、城塞となってお救いください。
4あなたはわたしの大岩、わたしの砦。御名にふさわしく、わたしを守り導き
5隠された網に落ちたわたしを引き出してください。あなたはわたしの砦。
6まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。

16わたしにふさわしいときに、御手をもって/追い迫る者、敵の手から助け出してください。
17あなたの僕に御顔の光を注ぎ/慈しみ深く、わたしをお救いください。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録755-60()227
7:55ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、56「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。57人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、58都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。59人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。60それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

2日課:ペトロの手紙Ⅰ 22-10()429
2:2生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。3あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。4この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。5あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。6聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」7従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、8また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。9しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。10あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。

福音書:ヨハネによる福音書141-14()196
14:1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

イエスは、今日私たちに「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られます。翻って私たち自身の在り様を見つめてみますと、私たちの人生は道に譬えられますし、時には生きる意味を問う者ですから、真理を求めている存在でもあります。また、わたしたちは命ある者でもありますから、このイエスが語られている事がらは、私たちの存在に関わるみ言葉であると言えます。

さて、ヨハネ福音書の冒頭のみ言葉の中に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と記されています。すなわち、このことが私たちに伝えることは、「言は神であった」と語られているように、神が肉となられたということです。同じヨハネ福音書でイエスは「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(6:36)と語られています。
これらのことがらから表されていることは、イエスは、神の言が肉となられた存在となられ、まったく霊であり、神の命に溢れている方が、取るに足らない肉の姿を取ってくださったということです。

それは何故かというならば、フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言った言葉に示されています。
というのは、イエスは、今日与えられるみ言葉まで、ご自身について色々に弟子たちに示されました。しかし、それでもなお、フィリポがそうであるように、イエスという方が誰であり、誰から来て、どこへ帰るか分からずにいるのです。すなわち、肉によっては、神の真理も、道も、命も知りえないということです。
人間とはかくも鈍感で、弱い存在でしかないということをよく表しています。

ですから、私たちは、私たち自身によっては、父なる神の御許に行くことはできないのです。では何が私たち一人ひとりを神の御許に引き寄せ、父の家に住む者としてくれるのかというならば、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」というイエスのみ言葉に集約されるのです。すなわち、私たちが神の家に住まうために唯一必要なことは、父なる神であり、子なる神であり、霊なる神を信じる信仰なのです。

この信仰が、私たちを真に憩わせ、安らかにさせるのです。「心を騒がせるな」とイエスは呼びかけます。それはペトロの離反を予告した後に語られます。神から離れる者であるということを明らかにしてなお、主イエスはそのようにして語り掛けてくださるのです。あなたは私を裏切る、そうであるならば神の恵み、救いに与ることはできないであろう、しかし、あなたは私を信じなさい、その信仰が父の家へと導く、そして、その道は、誰も通ったことのない道を通られた主イエスを信じることなのだと語るのです。

誰も通ったことがない道とは、すべての人間のため、すなわちすべての罪人のために、神から遣わされた神の言、霊である方が、地上に降って来て、命を献げることによって成し遂げてくださった救いです。つまり、十字架の赦しと、その痛みの中に隠されながらもハッキリと示されている神の愛です。それが主イエスが示された道です。

そして、主イエスを信じる者は「わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」と言うのです。人であり、肉であり、罪そのものである私たちが、十字架から与えられる愛によって、信仰という賜物が与えられ、それによって、主の御業を成すものとされるのです。
またほかの箇所で「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」とあるように、十字架を信じることは神の業であるのですから、私たちは信仰が神によって与えられ、それによって神の家に住まう者となることは確実な約束なのです。

ですから、私たちは、もはや自分が神のみ前に相応しくあろうと躍起になる必要はないのです。いま申しましたように、私たちは神の業によって信仰が与えられ、その信仰が十字架という主イエスが負われた痛みに神からの愛と恵みと赦しを知る者としているからです。

では、そのようにされた私たちがなすべきは何かというならば、主イエスのみ名によって、そして、神の御心に従い生きるということです。自分の思いを捨てて、主イエスならば今、この私に何を語り掛け、何を成せと命じられているか、そして、それに100パーセントの信頼を寄せて生きていくことなのです。
それは時に困難な道のりもあることでありましょう。主イエスを証したばかりに、ステファノは石打の刑によって処せられ、命を取られました。しかし、彼はそれでもなお、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と石を打つユダヤ人たちの赦しを執り成しました。

本当に大いなる使命であり、時にたじろぎ、恐れにとりつかれることがあるでしょう。しかしながら、そのような中にあっても主イエスは、私たちを命へと至らして下さいます。神の家で生きる者としてくださいます。「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」の内に置かれているのです。殉教しろと言うことではありません。しかし時として神の御心は、世にとって剣となりうるのです。そして、私たちは神のみ言葉という武具を取って戦わねばならないことがあるのです。

その大いなる苦しみと忍耐とを主は御存じでいてくださいます。そして、私たち自身もその先に希望が在ることを様々なみ言葉、使徒たちの証しを通して知っています。幸いなことです。み言葉を通して私たちはどこに居ようとも、どのような状況であろうとも、いつも力強いのです。
神を信じる信仰によって歩んでまいりましょう。その幸いを覚えていきましょう。主の御業を成す者とされている栄光を心に留めながらこれからも雄々しく宣教に励んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2017年5月7日日曜日

東日本大震災チャリティーコンサート「となりびとコンサート」

 今年も4月23日(日)13時30分から東日本大震災を覚えて「となりびとチャリティーコンサート」を開催しました。
 今回で7回目の開催となります。2011年震災発生後すぐに前任牧師の発案で始まったこのコンサートを毎年開催できますことは、大切なイエス様のお働きだと感じています。
 
 段々と報道も少なくなる中で、また被災地から遠く離れていると余計に意識から東日本大震災の記憶や、祈りの言葉が失われていきます。
 そのような中でこうして毎年3.11の出来事を覚え、祈り、少しでも被災地の方々のためにお仕えできればという願いをもって取り組ませていただいています。
 
 そのような思いで迎えた今年も高橋和彦さん(マンドリン)、夏川由紀乃さん(ピアノ)のデュオによるコンサートを無事に開催することができました。
 本当に素敵なマンドリンとピアノの音色で礼拝堂を満たしてくださり、ご来場の方々も聴き惚れてしまいます。
 小さなマンドリンという楽器なのですが、時に繊細に、時にダイナミックに鳴る音にいつも感動いたします。
 ピアノ演奏も夏川さんのご配慮で私たちにも聴きなじみのある曲を演奏してくださり、音楽に慣れ親しむ機会がいつも与えられます。
 お二人の演奏者にもご理解をいただき、貴重なお時間を毎回いただいていますことは本当に感謝に堪えません。

 何よりも、当日お越しいただいた55名のお客様に感謝いたします。
 このコンサートを楽しみにしてくださっている常連の方も与えられましたし、今年はチラシを2000部ほど新聞折込みに入れさせていただいたおかげで、折込チラシを見て来られたかたもありました。
 献金は52,000円お献げいただき、すべてを東日本大震災支援のために「カリタスジャパン」に送金させていただきました。感謝して御報告いたします。


  










復活節第4主日礼拝説教

「命を豊かにする神」

主日の祈り
私たちの羊飼いである神様。あなたは私たちひとりひとりの名を呼んで、死の谷を越えて安らかな地へと導いてくださいます。あなたの家に用意されている喜びの宴に向かって確かな足取りで歩むことができるよう、御声をもって私たちを導いてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編23編(旧)854
23:1【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
2主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
3魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
4死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
5わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
6命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録242-47()217
2:42彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。43すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

2日課:ペトロの手紙Ⅰ 219-25()431
2:19不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。21あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。22「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」23ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。25あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。

福音書:ヨハネによる福音書101-10()186
10:1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2門から入る者が羊飼いである。3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

キリスト教では、羊飼いと羊というモチーフがよく登場します。いわゆる比喩的な表現として用いられているのですが、これは羊飼いが、神やイエスを示し、羊を私たち人間であるということを示しています。有名なのは、詩編23編のモチーフでしょう。いずれにしてもこの比喩は、キリスト教にとって大切な事がらであり、神の福音を指し示すのになくてはなりません。
今日与えられている福音の出来事もまさに羊飼いと羊のモチーフが登場します。ですから、これは神と人、主イエスと人とのかかわりを表しています。どのような関わりを表わしているのかご一緒に神の御声に耳を傾けてまいりましょう。

有名な詩編の一つ23編の冒頭で「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という言葉があります。この「何も欠けることがない」という断言をもって生きていくことができることは、とても幸せなことのように思います。なぜこのようなことが幸せなのかというならば、私たちは自分自身に多くの欠けや、満ち足りない思いがあるからです。あぁどうして私はこんな容姿なのだとか、なぜこんな家に生まれてきてしまったのだとか、もっとお金があればとか、もっと頭が良ければ、孤独で仕方ないなど、自分自身に足りないものや、欠けているものがあると不服を言いたくなります。

また、苦しいことや、嫌なことがあっても不満を漏らしてしまいます。なぜこのような思いをしなければならないのか、何になるのかと、その苦しみが大きければ大きいほどそれは大きくなりますし、そのただ中にいると、その出来事の意味を問うことを止めて、苦しみからくる自分の不満や、不服に心を囚われてしまいます。
そういう思いに心を支配されやすいのが人間の常であると思うのです。現状自分自身を顧みて、一つでも満たされていないとそれを求めて、足りない、足りないという思いに走っていきます。

しかし、古代の詩編作者は、神を知り、その神を信じる信仰によって、どのような人生を送っていたのかは分かりませんが、ハッキリと「わたしには何も欠けることがない」と言い切る人生を与えられていきました。ここに信仰によって与えられる恵み、宝が示されています。

では何が恵み、宝であるかというならば、私たちの羊飼いであるイエスは、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」と語られているように、私たち一人ひとりの名を知っていてくださっているのです。多くの羊を主イエスは従えています。その数ははかり知れません。私たち自身もその羊の群れの一頭の羊です。しかしながら、その中で私たちは烏合の衆の一頭ではありません。聖書に「羊の名を呼び」とあるように、私たち一人ひとりの存在を知り、認めてくださっているのです。

皆さんにもお一人おひとりに名前があります。これはその人を見分ける記号ではありません。親御さんや、親戚の方が一生懸命にこの生まれてきた子に相応しい名前は何か考えてくださったに違いありません。名前には意味があり、そこに込められた愛情があります。そして、名前を知ってもらうというのは、その人の存在を認めるということです。ですから、例えば、神社で授受していただくお札・お守は神の分身だと考えられています。そしてそのお札やお守りの中身には神を表す文字が書かれています。名前を書くまではそこには神はいませんが、名前を書いた途端にその名前と同じ神がお札、お守りに宿ると考えられているのです。つまりお札、お守りは「眼に見えないエネルギーを名前という呪(しゅ)で固定させている」ものなのです。

そのようにして、名前というのは、大きな意味があり、その人をある意味で縛るのです。そのような考え方からこのみ言葉を聴いていくならば、神は私たちをとらえて離さないということです。私たち一人ひとりの存在を知っていてくださり、養い、育ててくださるのです。時として野の獣に襲われそうになり、命の危険にさらされながらも、命がけで私たちを守ってくださっているのです。そういう存在として主イエスは、私たちと深く関わってくださっているという真実をこのみ言葉を通して主イエスは伝えてくださっているということです。

そもそも私たちは、罪人です。本来であれば神の養いや、恵み、宝を受けるにふさわしくない存在です。裁かれて陰府に降る存在でしかありません。しかし、その私たち一人ひとりを神はご存じであり、そして、その名を呼び求めて、救い出してくださったのです。しかも、その代償を私たちに負わせるのではなく、羊飼いである主イエスご自身が、私たち罪人を守り、永遠の命、恵みの命に溢れさせるために、ご自身の命を投げ打ってくださったのです。

それが十字架です。この十字架の死によって私たちの罪は赦され、完全に贖われたのです。神に赦されている存在とされたのです。裁かれるものではなく、赦され、神の御国に今生きる者とされています。さらに主イエスは、復活という御業を通して、罪人としてではなく、真に神の羊として、いつも神に養われ、神に呼ばれ、神との関わりの中で生かされているのです。

イエスの時代、羊飼いたちは、多くの羊を導きながらエルサレムの荒野を渡り歩いていました。羊飼いたちは、長い年月をかけて、野のあちこちに羊の囲いを設けて、夜になると羊をそこに導きいれて休ませたそうです。この囲いは誰かの所有物ではなく、誰しもが共同で使っていたそうです。そして、朝になると再び自分たちの羊を呼び集めて、羊を養うために野に出るのです。そして、羊たちもまたその羊飼いの声を聞き分けて、他の羊飼いの声に着いていくことはないそうです。

私たちは、罪人である時、神の御声を聞き分けることが適いませんでした。それは、どういう状態だったかというならば、自分自身の思いで生き、自分の欲求を満たすために世の中であちこちとさ迷い歩いていたのです。何かが足りない、何かを欲していたいという思いに囚われ、もがき苦しんでいました。
しかし、主はそのような私の名前を呼び、私という存在を認め、神の養いのもとに置いてくださいました。神から来る恵みは、限りはありません。そうであるならば、この世的には、いろいろな基準を満たしていない存在かもしれませんが、実は満ち足り、むしろ溢れるほどの恵みに生かされている命であるということを覚えていきたいのです。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」と主イエスが語られているみ言葉は真実です。この世的に見れば、取るに足らない存在でしかない私を、神は捉えてくださり、いつも養い、守り、導いてくださっています。日々、主イエスが共に居てくださり、名前を呼び、私たち一人ひとりと関わり続けてくださっているのです。
ですから、私たちは孤独ではありません。羊飼いである主イエスが、私たちのこの世での歩みを導いてくださっています。その中で味わう辛苦を知ってくださっています。そして、その辛苦を主イエスは十字架という形で共に担ってくださいました。

ですから私たち自身、このみ言葉を通して羊飼いである主イエスの声を聴く者とされているのですから、主イエスの御声、すなわち、それはみ言葉に、聖書に聴いていくということです。ペトロが「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」と証していることが真実であるということを、み言葉を通して知らされました。「わたしには何も欠けることがない」人生であるということを知らされました。何も欠けのない命の営みの中に生かされている恵みを思い起こしながら、今日からの日々を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

復活節第3主日礼拝説教

「心が燃える」

主日の祈り
神様。御子はパンを裂くことによってあらゆる弟子たちにご自身を知らせてくださいます。贖いの働きをされる主イエスを見ることができるように、私たちの信仰の目を開いてください。アーメン

詩編唱 詩編16編(旧)845
16:1【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
2主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
4「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
5主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
6測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
7わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
9わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
10あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録214a36-41()216
2:14aすると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。

36だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」37人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。38すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」40ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。41ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

2日課:ペトロの手紙Ⅰ 117-23()429
1:17また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。18知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、19きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。20キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。21あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。22あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。23あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

福音書:ルカによる福音書2413-35()160
24:13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日与えられている出来事は、エマオ途上の出来事です。復活の主イエスと二人の弟子たちとの出会いのやり取りの場面です。いろいろな絵画の題材にされたり、また「わたしたちの心は燃えていたではないか」という弟子たちの喜びに満ちた言葉などが好きだという方も多くいらっしゃいます。復活節にはよく読まれ、親しまれている福音の出来事です。今、改めて私たちはこの物語から神の福音を聴き、復活の主イエスを通して与えられている新らしい喜び、約束をご一緒に味わってまいりましょう。

さて、二人はイエスの遺体が失われていた、そして、婦人たちが天使たちから『イエスは生きておられる』と告げられた言葉を受けてなお、エルサレムから離れようとしています。11節には、この婦人たちの報告に対して「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」とありますから、おそらくこのクレオパともう一人の弟子たちも「信じなかった」一人だったのです。そして、エマオ途上にあったということでしょう。

しかし、彼らは、本当に失意のうちにあったのかというならば、果たしてそうかと思わされるのです。と言うのは、彼らは「この一切の出来事について話し合っていた。」と記されているように、婦人たちが報告してきたこと、振り返って主イエスが十字架にかけられて死んでしまったことの本当の意味は何か測りかねていたのです。しかしながら、人の死は終わりを意味するのですから、師と慕っていたイエスを失い、何も分からないままに、そして、主イエスが予め語られていたことを信じられずにエルサレムを後にしていたのです。

そのような二人の弟子に主イエスが「近づいて来て、一緒に歩き始められた」のです。主イエスは、復活の朝、婦人たちにその正体を現しましたが、この時は、ただ二人と共に歩きながら、事の次第について耳を傾けているだけでした。そして、二人の弟子もまたこの人が復活された主イエスご本人だとは気づいていません。その理由は「二人の目は遮られて」いたからです。

この「遮られている」という言葉は、直訳するならば「つかむ」「捕らえる」「支配する」「強い」という意味があります。とても広い意味を有している言葉ですが、この箇所は、「遮られている」と訳すよりも「支配されていて」と訳した方が福音の意味をより明確にするように思います。

なぜならば、二人の弟子たちに語り掛けられた主イエスの「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」というみ言葉にそのことが現されています。すなわち、彼らは不信仰に陥っていたということです。不信仰が彼らの目を支配し、イエスをイエスと分からなくしていたのです。
主イエスご本人が十字架の前に数々の奇蹟や教えを語られている時は、その姿を見、声を聞き、感銘を受けて、この人こそ「イスラエルを解放してくださると望みをかけて」いたにもかかわらずそれは失意のうちに終わりました。現実に見えること、起きていること、それしか信じられない信仰だったのです。

そのような弱く、躓いた信仰の持ち主である弟子たちに主イエスは、もう一度モーセから始まって聖書全体について説明、すなわち聖書に記されている事について神のみ旨を明らかにしてくださったのです。
復活の主イエスは、不信仰によって目を支配された人に、目は心ですから、それは言い換えるならば心を支配され、信じられなくなっている者に対して、そのままにしてその日に裁かれる者としてではなく、もう一度始めから語り掛け、証ししてくださっているのです。

そして、彼らは、主イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」時、その目が開かれ、その人がイエスだと分かったとあります。ここにルーテル教会が大切にしている二つのサクラメントが示されています。それは説教による見えないみ言葉の恵みと、聖餐による見える形での恵みです。そして、それは私たちがこのようにして慣れ親しみ、毎主日に与っている礼拝そのものです。み言葉が語られ、聖餐の恵みを受けるこの時はまさにエマオ途上なのです。

私たちもまたこの二人の弟子たちなのです。主日の礼拝においてみ言葉を通して信仰を燃やされます。しかし、週日の営みの中でエルサレムから離れていく、すなわち神から離れていきます。そのような中でまたこうして主日にこの会堂に集い、見えざる恵みであるみ言葉の説教の恵みと見える恵みである聖餐の恵みをいただき、神のみ旨、復活の主イエスの姿を見、心を燃やします。

私たちの大切な信仰告白であるアウグスブルク信仰告白には「サクラメントは外的にキリスト者を識別するしるしであるだけでなく、むしろわれわれに対する神のみ旨のしるしであり証明であって、それによって、われわれの信仰を目覚めさせ、強める」(第一三条 サクラメントの意味と用法について抜粋)とあります。まさにみ言葉の説教も、聖餐によって受ける主イエスご自身の体と血が、私たちを目覚めさせ、キリスト者であることの恵みを思い起こさせますし、キリスト者でない人にとってもこのしるしを通して信仰を目覚めさせます。

私たちは、日々の営みの中で、常識の中で過ごすうちに、主を見なくなってしまいます。いろいろな神ならざるものに目を遮られます。しかし、その私を主は、近づき、教え、証しし、目覚めさせてくださるのです。この主の働きの内に私たちは日々生かされているのです。いつも神から離れてしまう弱い信仰、信じられない者でしかない私たちをいつも捕らえてくださっているのは神です。私たちが捕らえたから神の恵みを獲得したのではありません。

いつも神の働きが、神が私たちのために語り、仕えてくださっているから私たちは心が燃え立ち、主に生かされていること、主の恵みを確信するに至るのです。復活の主イエスとの出会いを、毎主日に私たちは与えられている喜びを覚えてまいりましょう。そして、この喜びが真に人を生かし、喜ばせ、心を燃やし、生き生きとさせるのだということを、確信をもって宣べ伝えていきましょう。このよのどんな力や喜びに勝る神との出会いの時は礼拝においていつも体験し、与えられているのですから、この時と場へ多くの人を招待する伝道者として歩んでまいりましょう。


人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

復活節第2主日礼拝説教

「あなたが赦せば、赦される」

主日の祈り
全能・永遠の神様、あなたは信じる者の力です。疑う私たちを、見ないで信じる信仰によって、キリストの豊かな祝福に与からせてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

詩編唱 詩編16編(旧)845
16:1【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
2主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
4「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
5主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
6測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
7わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
9わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
10あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。

本日の聖書日課
1日課:使徒言行録214a22-32()215
2:14aすると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。

22イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。24しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。25ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。26だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。28あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』29兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。31そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

2日課:ペトロの手紙Ⅰ 13-9()428
1:3わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。6それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。8あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

福音書:ヨハネによる福音書2019-31()210
イエス弟子たちに現れる
20:19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

イエスとトマス
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日示されていることは、私たちが復活の主イエスを信じることの難しさを示しているように思います。というのは、今日の福音において弟子たちは、復活の主イエスに出会う喜ばしい出来事に際しているのですが、その際にトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」とハッキリと言っています。
これは何と不信仰な、頑なな心だと思われますが、考えてみれば私たちの常識においても人が復活するということはあり得ません。誰でも死を迎えるのですから信じがたいし、それを実際に見るまでは信じないということは至極当然のことです。

しかし、主イエスは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語り掛けてくださっています。このみ言葉は私たちにとって大切なことを教えてくださっています。それは信仰の本質を物語っているからです。主イエスの復活という信じがたい出来事に際して、このように語り掛けてくる神のみ言葉に示されている福音とは何でしょうか。ご一緒にこの時、主イエスのみ言葉に耳を傾けながら、味わい知りたいと思います。

始めに申しましたように、私たちは様々な常識に囚われ、いろいろな事がらに対して理性や知識を駆使します。それが人間の文明の進歩や便利さを生み出してきたことは間違いありません。しかし、そのような中で私たちの意識は、今目の前に見えることにのみに重きを置く思考になってしまっているように思います。
古代哲学以来、人は真に良く生きるにはどうしたら良いかということを考えてきました。たとえばプラトンは、それをこの世はイデアの似姿にすぎず、それを真に感得するために準備をしたり、学習しているのだと難しいことを論じたりしています。

しかし、哲学など難しいことは抜きにしても、私たちはキリスト者として神の愛を世に伝え、広め、神の御国がこの世に実現するようにという祈りを持っています。ですから良く生きるということは、神の愛によって生きるということです。そして、それを私たちに知らせてくださるのが信仰です。そして、この信仰によって私たちは神の姿を見、神の愛を知り、この世を良くする力を与えられるのです。

そして、その信仰が、私たち一人ひとりの罪を露にします。パウロは「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」(ローマ7:12)「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。」と語っているように、信仰によって神の義しさを知った私たちは、律法が善であるからこそ、私たち一人ひとりは罪を知り、その力に支配され、抗うことができないことを知ります。

信仰が無ければ、私は人を愛しています。殺しなどしていないと言うことができたでしょう。しかし、信仰があるからこそ、主なる神がイエスの十字架を通して示された愛を完遂できないこと、殺すなと言われながら、安易な例かもしれませんが街角で困っている人を見かけながらも、自分の心の中でその人の存在を消して、見て見ぬふりをしてしまいます。

ですから、信仰が与えられたからこそ、自分自身の限界や、罪の大きさ、罪に囚われている自分を見出します。しかし、主イエスは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語られます。なぜでしょうか。よっぽど信仰が無い方が楽なような気がします。信仰が与えられているばかりに、自分の弱さや罪深さ、信仰の弱さを露呈し、苦しみます。

まさに家の中に閉じこもっている弟子たちも、トマスもそうでした。そこに居た弟子たち全員が神を信仰するばかりに恐れに囚われ、見ないと決して信じないと言わしめてしまったのです。
しかし、そのような弟子たちに主は、重ねて「あながたに平和があるように」と語り掛けてくださいました。始めは恐れを取り除くために、そして、喜びの上に重ねて主なる神の平和があるようにと、それを強めてくださいました。トマスには「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と語り掛け、信じる者となるように導いてくださいました。

主は躓いた者に対して、それを放っておくのではなく、平和の祝福と、信じないと言ってしまっても、それをそのままに受け止め赦し、「触れなさい」と語りかけてくださるのです。この復活の主イエスとの交わりによって彼らは躓きや恐れから解放され、主を宣べ伝える者へと変えられていきました。そして、神の愛、赦し、救いが世に実現するように、すなわち神の御国が成るように働いていきました。

私たちもまたこの主イエスの愛と赦しによって、そのようにされているのです。信仰が与えられているからこそ、弟子たちの恐れと、トマスの疑いが自分自身の身に起こることであると深く神の出来事を体験するのです。
しかし、その体験は同時に、信仰によって神の愛、赦し、救いを体験するのです。
そして、この体験によって私たちは、神によって自分の罪が赦されていることを知り、もはや自分のために良いことをするのでなく、他者のために、隣人のために善き業に励むことができるのです。

だからこそ、私たちは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」というみ言葉に、すなわち信仰者として生きる幸いを覚えていきたいと思うのです。信じたからこそ、神の愛に触れ、隣人に仕え、良く生きることができるのです。信じることによって、罪人だということを知らされ、死の力に抗うことのできない自分を知ります。さらにそれで終わりでなく、信じることによってイエスの死と復活によって、罪が赦され、罪に死ぬ者から神の命に生きる者へと変えられている恵みを知ります。

ですから良く生きるとは、わたしが充実した人生を送ることではありません。私はすでに神によって善きものに満たされているのですから十分なのです。だからこそ、この神によってすべての人が善きものの内に在ることを伝える働きに召され、それを宣べ伝えるために神からの信仰が与えられているのです。愛し、仕えることを厭う必要はありません。むしろ信じることの恵みを豊かに受け取りながら、主の復活の命に生かされつつ歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。