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2017年10月2日月曜日

聖霊降臨後第17主日説教

「悔い改めて生きる」

主日の祈り
命の与え主・愛の神様、あなたは私たちがいつも過ちを犯す者であることをご存じです。恵みによって私たちを過ちから守り、それを乗り越え、救いの道へと導いてください。み子、主イエス・キリストによって祈りのます。アーメン。

詩編唱 詩編251-9()855
25:1【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
2わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。
3あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
4主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。
5あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。

6主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
7わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。
8主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。
9裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。

本日の聖書日課
1日課:エゼキエル書1814節、2532 ()1321
各人の責任
18:1主の言葉がわたしに臨んだ。2「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。/『先祖が酸いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。/3わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。4すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。

25それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。26正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。27しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。29それなのにイスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。
30それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。31お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。32わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。

2日課:フィリピの信徒への手紙2113()362
キリストを模範とせよ
2:1そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、2同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
共に喜ぶ
12だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。13あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

福音書:マタイによる福音書212332()41
権威についての問答
21:23イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」24イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。25ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。26『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」27そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
「二人の息子」のたとえ
28「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

【説教】
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

この時、祭司長や民の長老たちは、主イエスに近づき、神殿から商人を追い出したり、病人を癒したりする、また教えている事がらに対して「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」と問いかけます。なぜそのような問いかけをしたのでしょうか。それはイエスが誰のもとから来られたか知らなかったからです。そして、彼らは何よりも自分たちの権威はモーセ以来、神から与えられた者であるという自負があったからです。これを脅かすような存在はあってはならなかったのです。

そのような問いを受けて主イエスは「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と逆に祭司長たちに問いかけます。なぜそのようなことを問うのかというならば、彼らが洗礼を受けていないという事に由来いたします。もし、受けていたのであればそれが天来のものであることであると信じ、従ったということです。しかしながら彼らはおそらくヨハネから洗礼を受けていないでしょう。すなわち、それは神に対する不従順を露にするのです。

なぜならば、ヨハネは「悔い改めよ、天の国は近づいた。」と宣教していたからです。ヨハネの洗礼とは悔い改めの洗いです。水においてそのしるしとしたのです。そして、そこに来るものとは、天の国を望み、御国に相応しい者となりたい、自分自身の罪について悟り、悔い改めを必要としていたということを表すのですから、自分が正しく御国に相応しい身分であるという祭司長たちがそこに来るはずがないのです。自分はすでにこの権威のゆえに神のみ前に正しいという思い上りが、この問答に見て取れます。自分は善であるという最も愚かな思い上がった人間の姿がそこに映し出されているのです。

そこでイエスは一つの譬えを用いて彼らに語りかけます。二人の息子が登場いたします。ぶどう園へ行って働きなさいという父に対してどのように振る舞ったかということが語られています。兄は嫌ですと言いながら出かけた。弟は模範的に応えながら行かなかった。本当に単純な二人の息子の対比が示されています。そして父親の意思を行ったのは誰であるかということは明白です。最初、拒否していた兄が父の思いを行ったということです。

ここに祭司長たちの天の国における不義が示されるのです。徴税人、娼婦とは、祭司長たちやまたユダヤ教徒の人々にとっては罪人の筆頭のような存在です。それらの人々は、神の救いに与るにふさわしくない人間だと思われていましたし、その人の人となりに関係なく、蔑まされていた人々でありました。しかし、彼らこそ自分が神のみ前において正しくない、神の義さに恐れを抱いていた者でした。この正しさの前に自分は滅びるしかない、死する存在でしかないということに絶望していたのかもしれません。

しかし、そのような時に洗礼者ヨハネが現れました。彼は「悔い改めよ」と叫びます。今日の福音にあるようにそれは「考え直す」ということでしょう。考え直すということは、その対象の物事に向き合っていくということです。その真剣な思いをもって向き合った時に、神という存在を前にして、そこにこそよりどころがある、むしろ、罪深い自分には神のみがより所であるということを悟るのではないでしょうか。

神のみ前において不義であるということを深く自覚するとき、悔い改めるほかないという思いが与えられていくのです。今日の第一日課で「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」と示されているように、神は悔い改める者の悔い改めを赦し、死ぬ者から生きる者、命ある者としてくださると預言を通して教えてくださっています。

すなわち、私たちは自分自身の罪を悔い改めるとき、その罪の重さ、罪の深さ、滅び、死ぬべきものでしかないということを悟る時、真の悔い改めをしようという思いが与えられ、その真の心からの悔い改めを聴いてくださる方が居てくださるということを知らされているのです。
すなわち、悔い改めて生きるということは、たしかに何か暗い自分の部分を見つめるということをしなければなりませんから、苦しいですし、悩みます。けれども、私たちはその悔い改めを聴き、赦し、命を与えてくださる方をみ言葉を通して知らされています。

そうであるならば、悔い改めて生きるということは、命の中に入るということであり、希望をもって生きるという前向きな生き方なのです。二人の兄弟の兄は始め、父の前において父に従いませんでした。まさにそれは神の律法の前において従えない私たち一人ひとりを映し出します。しかし、そこから悔い改めてぶどう園に行ったということは、御国に行ったということです。

悔い改める者は、御国に行くのです。この約束が今日の二人の息子の譬えを通して示されています。私たちは、兄です。従えない者でしかありません。ですから、毎週の礼拝の中で、毎回の祈りの中で自分が神のみ前において足らざる者、欠け多き者、不義生る者であることを覚え、この悔い改めを真に聴いてくださる方へそれを正直に告白していきましょう。

それが「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。」とあるように私たちは罪を告白するごとに、新しい心と新しい霊を造り出し、命へと行くのです。光の方へと歩むのです。重ねて言いますが、悔い改めとは、自分の暗い部分を見つめながら、それを光へと変えてくださる方に信頼していくという前向きな生き方です。悔い改めて生きる恵みを覚えてまいりましょう。命へと歩んでまいりましょう。