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2018年3月11日日曜日

四旬節第4主日説教

「信じる者は一人も滅びない」

主日の祈り
平和の神。あなたは永遠の契約の血による大牧者、主イエス・キリストを死より復活させられました。

主に従ってみ旨を行うことができるよう、あなたの永遠の契約の血によって、御目にかなうことを私たちに実現し、善いことすべてを行うことができるようにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、み子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

本日の聖書日課

第1日課:民数記21章4節‐9節 ()249頁

21:4彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、5神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」6主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。7民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。8主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」9モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

第2日課:エフェソの信徒への手紙2章1節‐10節()353頁
2:1さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。2この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。3わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。4しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、5罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――6キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。7こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。8事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。10なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

福音書:ヨハネによる福音書3章14節‐21節()167頁
3:14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。19光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」


【説教】

本日与えられている民数記におけるイスラエルの民を見てみますと私たち人間がいかに信仰において薄弱で、脆いかということが露呈されます。イスラエルの民は、エジプトを出て30年間荒野を彷徨わなければなりませんでした。それは現代の私たちにとっては途方もない旅であり、想像を絶する旅であったことと思います。

しかしながら、時間というものは私たちを時として苦しめます。特に苦しく長い出来事が続いていくと人はどうしてもその状況に対して嘆きを覚えます。聖書は「耐えきれなくなって」と書いていますが、原典から直訳すると「魂が落胆して」です。すなわち、この時、イスラエルの民は心の底から疲れを覚え、心から落ち込んでいるのです。その中で人は、神に対して疑いを持ってしまうのです。何故神は私をこのような状況に追い込むのか、苦しめるのかと神に疑いをもってしまうのです。

魂が落ち込み、力も出ないときにこそ私たちの信仰は試されます。そして、その弱まった魂に悪や、罪の力はいともたやすく私たちに牙をむきます。そして、荒野でそうであったように、私たちはその牙によって死んでしまうのです。すなわち、罪とは私たちを死に追いやる牙であり、特に魂が弱り、落ち込んでいる時にその力は凄まじい脅威となり、それに抗うことができないのです。

さらに人間は、罪という事がらにおいて、自分自身が神に対して犯した罪であるにもかかわらず、それを抗いきれない真実を今日のみ言葉は如実に語っています。自分で犯した罪の結果が死であるにもかかわらず、それを逃れる術を私たち自身は持っていないのです。ですから、私たちは罪の力に対して、裸で腹を空かした猛獣の檻に入れられているようなものでしかありません。そこから逃れる檻の鍵も持ち合わせていないのです。

罪の力に対して私たちに成す術もない姿を見て神はどのような御手を下されたかと言うならば、青銅の蛇を旗竿の先に掲げ、悔い改めてそれを仰ぐ者に命を得させることによって救いの道をお示しになりました。自分自身を死に至らしめた蛇を仰ぐとはどういうことでしょうか。それは、自分が何ゆえに死に至る牙に襲われたかということを思い起こすためではないでしょうか。

私は罪によって死に至る、死の世界に飲み込まれて行ってしまう。そのような中で主に悔い改めていくにあたって、主は己の罪を見つめよと仰っているのです。お前は何ゆえ死の牙にかけられているのか、私のゆえか、それともお前のゆえかということが問われているのです。蛇は誰の悪か、誰の罪かと問いかけているのです。その答えはパウロが「自分の過ちと罪のために死んでいた」と語っているように私の側にあるのです。神のみ前に罪を犯しているのは私自身である。

神を疑い、神を非難し、神を拒んだのは、私です。魂が落胆し、力が出ないときに、神により頼むのではなく、神に対し神を否み、疑うという振る舞いをし、神に対して罪を犯したのは誰でもなくこの私なのです。徹底的にその要因は、私にあるということを深く自覚する、それが青銅の蛇であり、そして、主イエスの十字架なのです。

この掲げられた方は、私が神に対して犯した不義、不信仰、疑い、冒涜ありとあらゆる姿を映し出すのです。そして、同時に十字架には神の愛が顕されています。十字架には神の憐れみ、慈しみ、愛、恵みといった私たちの救いにおいて不可欠の神の賜物があります。苦しみでしかないその主イエスのお姿の中に、神からの善いものが示されているということを今日の福音は告げています。

主イエスの十字架を見上げるごとに、イスラエルの民が蛇を仰ぐごとに、自分の罪を見つめ、悔い改めの機会を与えてくださり、主により頼むことによって与えてくださる恵みをお示しになってくださっているのです。主イエスは、宣教の始めに「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。悔い改めとは、自分自身の罪を神に告白することです。そして、その罪を主に差し出し、ただただ主の赦しに希うほかないという信仰の告白です。

その告白を主は聞き入れてくださいます。自分で自分の罪を贖うことの出来ない罪深い私を神は見つめ、憐れんでくださり、賜物として主イエスの十字架を通して赦しを与えてくださるのです。主イエスの十字架を見つめつつ、その十字架に私の神に犯した罪があることを深く自覚し、悔い改めるとき、神は裁き主として厳しく臨む方ではなく、救い主、愛なる神として私たちに臨んでくださっていることに気が付かされます。

私が負わなければならなかった十字架を、赦される術を持たない私のために、罪に対して弱く、死ぬほかない私のために主イエス自らがそれを担ってくださろうとしているという驚くべき御業を私たちは今日のみ言葉から知らされています。第1ヨハネの手紙に「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」と証されているとおりです。

救いの始めは、主の愛であり、その主の愛を信じ、自らの罪を見つめ、悔い改めていくことです。主の愛によって私たちは赦され、生きる者とされているのです。光の中を歩む者となる道を神はお示しになってくださっているのです。その始めは、罪という闇に身を置くのではなく、主イエスの十字架から注がれる光に自らを晒すことです。自分の罪、悪を明るみにだすことを恐れることはありません。

神は私たちを愛してくださっています。裁くためではなく、愛するために主イエスを遣わしてくださっています。主はわたしの罪を既にご存知です。もし自分に罪が無いと言うならば「それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(第1ヨハネ1:8)。神ご自身を否むことでしかないのです。ですから、私たちは正直に神のみ前に罪や悪を告白し、主イエスの十字架にすべてを委ねていきましょう。十字架にすべてを委ねるということは、神の愛にすべてを委ねることです。

四旬節にあって、改めて主のみ前に罪を告白し、悔い改めていくことの恵みを心に留めていきましょう。裁かれるのではないかという畏れからではなく、神の愛に信頼して、赦しの御業である十字架を仰ぎ見つつ悔い改めの日々といたしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように